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徳川慶喜は何代目?15代最後の将軍の生涯と大政奉還を徹底解説【2026年版】

室井 健太 室井 健太 • 更新: • 公開: • 読了約 19 分
目次

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府の第15代将軍です。初代・徳川家康から続いた徳川将軍家の最後を担った人物であり、一般に「江戸幕府最後の将軍」として知られています。14代将軍・徳川家茂の死後に将軍職を継ぎ、1867年の大政奉還によって朝廷に政権を返上しました。その後、王政復古の大号令や戊辰戦争を経て、260年以上続いた江戸幕府は終焉を迎えます。

慶喜の将軍在任期間は約1年と短く、その政治判断には現在もさまざまな歴史的評価があります。また、将軍を退いた後は静岡で長い年月を過ごし、写真や狩猟などの趣味を楽しみながら1913年まで生きました。今回は、徳川将軍の歴代一覧、14代徳川家茂との関係、将軍就任の経緯、大政奉還の真相、退任後の生活までを時系列で整理します。

【答え】徳川慶喜は何代目?江戸幕府15代将軍で最後の将軍

徳川慶喜何代目

徳川慶喜は、江戸幕府の第15代征夷大将軍です。初代将軍・徳川家康が1603年に江戸幕府を開いて以来、15人の将軍が政権を担ってきました。その最後に就任したのが慶喜です。

徳川幕府の将軍は、家康から慶喜まで15代にわたって続きました。慶喜の将軍就任によって新しい徳川政権が始まったものの、国内の政治対立や外交問題、倒幕運動などによって幕府の存続は極めて困難な状況にありました。

徳川将軍の歴代一覧・初代から15代までの順番

江戸幕府の歴代将軍を順番に並べると、次のとおりです。

  1. 初代:徳川家康(とくがわいえやす)
  2. 2代:徳川秀忠(とくがわひでただ)
  3. 3代:徳川家光(とくがわいえみつ)
  4. 4代:徳川家綱(とくがわいえつな)
  5. 5代:徳川綱吉(とくがわつなよし)
  6. 6代:徳川家宣(とくがわいえのぶ)
  7. 7代:徳川家継(とくがわいえつぐ)
  8. 8代:徳川吉宗(とくがわよしむね)
  9. 9代:徳川家重(とくがわいえしげ)
  10. 10代:徳川家治(とくがわいえはる)
  11. 11代:徳川家斉(とくがわいえなり)
  12. 12代:徳川家慶(とくがわいえよし)
  13. 13代:徳川家定(とくがわいえさだ)
  14. 14代:徳川家茂(とくがわいえもち)
  15. 15代:徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

この15人のうち、8代の徳川吉宗、11代の徳川家斉、14代の徳川家茂、15代の徳川慶喜は、徳川宗家の直系とは異なる家系から将軍になった人物です。

東京都江戸東京博物館の企画展示「徳川一門―将軍家をささえたひとびと―」でも、御三家や御三卿から将軍職を継承した人物の存在が紹介されています。徳川将軍家は、単純な父子相続だけで15代まで続いたわけではありません。

なお、慶喜が最後の将軍だからといって、徳川家そのものが慶喜の代で消滅したわけではありません。明治維新後、徳川宗家は田安家出身の徳川家達が16代当主として継承しています。つまり、15代将軍と徳川宗家の16代当主は別の話です。

【14代将軍との関係】徳川家茂の死が慶喜の将軍就任につながった

徳川慶喜が15代将軍になった経緯を理解するには、14代将軍・徳川家茂との関係を知る必要があります。

慶喜は1837年10月28日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。幼名は七郎麿です。1847年には一橋家を相続し、一橋慶喜として政治の世界に関わるようになります。

将軍継嗣問題で徳川家茂と争った過去

1853年、13代将軍・徳川家定が就任すると、将軍の後継者問題が政治的な争いに発展しました。

当時、将軍候補として有力視されていたのが一橋家の徳川慶喜です。一橋派は慶喜の政治的能力に期待していました。一方、井伊直弼ら南紀派は、紀州藩主だった徳川慶福を支持しました。

この争いで勝利したのは南紀派です。徳川慶福は14代将軍・徳川家茂となり、慶喜は将軍の座を逃しました。その後、慶喜は安政の大獄によって隠居・謹慎を命じられるなど、政治的に厳しい立場に置かれます。

家茂の死後、慶喜が15代将軍に就任

状況が変わったのは1866年です。14代将軍の徳川家茂が第二次長州征伐の最中に大坂城で病没しました。わずか21歳でした。

幕府は長州藩との戦争で苦戦し、国内の政治情勢も不安定になっていました。こうした状況の中、徳川宗家を継承した慶喜が次の将軍として選ばれます。

慶応2年12月5日、慶喜は京都の二条城で将軍宣下を受け、第15代将軍となりました。旧暦の日付を現在の西暦に換算すると1867年1月10日です。

「1866年に将軍になった」という説明と「1867年1月に就任した」という説明が存在するのは、元号と旧暦、西暦の表記の違いによるものです。歴史上の出来事を比較するときには、この暦の違いを押さえておく必要があります。

徳川慶喜を取り巻いた主要人物と関係
人物・組織 慶喜との関係 歴史上の役割
徳川斉昭 実父 水戸藩主。慶喜の政治的背景を形成した人物。
一橋家 養子として相続した家 慶喜が将軍候補として政治的基盤を築いた家系。
徳川家茂 14代将軍・前任者 家茂の死去によって慶喜の将軍就任が現実となった。
井伊直弼 政治的対立相手 将軍継嗣問題で家茂を支持し、慶喜と対立した。
山内容堂・土佐藩 大政奉還をめぐる関係者 土佐藩の建白が政権返上の政治的契機の一つとなった。
朝廷・明治新政府 政権返上の相手 大政奉還や王政復古を通じて政治体制を転換した。
薩摩藩・長州藩 政治・軍事上の対立勢力 倒幕運動を推進し、旧幕府勢力と対立した。

この関係から見えてくるのは、慶喜が単に家茂の後継者として将軍になったわけではないという点です。将軍継嗣問題で一度敗れた人物が、幕府の危機という大きな転換点で再び政治の中心に立ったのです。

【生涯と経歴】徳川慶喜の将軍就任から幕府終焉までの年表

徳川慶喜の生涯は、江戸幕府の安定期ではなく、政治体制そのものが崩れていく幕末から明治への移行期と重なります。

国立国会図書館の「近代日本人の肖像」では、慶喜の生没年を1837年10月28日から1913年11月22日とし、江戸幕府第15代将軍として紹介しています。

徳川慶喜の主要な出来事
  • 1837年:水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸に誕生。
  • 1847年:一橋家を相続し、一橋慶喜となる。
  • 1858年:将軍継嗣問題で敗れ、安政の大獄に関連して謹慎処分を受ける。
  • 1862年:将軍後見職に就任し、幕政改革に取り組む。
  • 1866年:14代将軍・徳川家茂が死去。徳川宗家を相続する。
  • 1867年1月10日:二条城で将軍宣下を受け、第15代将軍となる。
  • 1867年11月9日:大政奉還を朝廷に申し出る。
  • 1868年1月3日:王政復古の大号令により将軍職の辞職が受理される。
  • 1868年:鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北。慶喜は謹慎生活に入る。
  • 1869年:謹慎が解除され、その後は静岡で生活する。
  • 1897年:静岡から東京へ移住。
  • 1902年:公爵となる。
  • 1913年:11月22日、東京で死去。

注目したいのは、将軍としての政治活動よりも、将軍になる前からの幕政改革や、将軍を辞めた後の長い人生に多くの時間を費やしている点です。

慶喜は将軍就任時に29歳でした。幕府の制度改革や欧米諸国との外交関係の構築を進めようとしましたが、国内の政治的対立はすでに深刻化していました。将軍になった時点で、幕府が従来の統治体制を維持することは容易ではなかったのです。

【大政奉還の真相】1867年に徳川慶喜が政権を朝廷へ返した理由

徳川慶喜の歴史的な功績として最も知られているのが、1867年の大政奉還です。

大政奉還とは、将軍が持っていた政治上の権限を朝廷に返上することです。慶応3年10月14日、慶喜は朝廷に政権返上を申し出ました。これは西暦では1867年11月9日に当たります。

外務省の外交史料館が公開する「大政奉還から明治新政府へ」の解説でも、慶喜が朝廷に上表を提出し、翌日に朝廷が大政奉還を許可した経緯が説明されています。

なぜ慶喜は大政奉還を決断したのか

大政奉還の背景には、複数の政治的な事情がありました。

第一に、幕府の政治的な求心力が低下していたことです。第二次長州征伐の失敗や諸藩の政治的な発言力の増大によって、幕府が全国を従来どおり統治することは難しくなっていました。

第二に、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕運動が勢いを増していたことです。武力による政権転覆の動きが強まる中、幕府が従来の権力構造に固執すれば、大規模な内戦につながる危険性がありました。

第三に、慶喜自身が新しい政治体制の中でも徳川家の影響力を維持しようとしていたことです。国立国会図書館の解説にも、慶喜が大政奉還によって徳川家の復権を図ったものの、倒幕派との政治的対立に敗れた経緯が記されています。

大政奉還だけで江戸幕府が消滅したわけではない

ここは歴史を理解するうえで特に要点です。

大政奉還によって政治権限が朝廷に返上されたことと、幕府という統治機構が実際に廃止されたことは、同じ出来事ではありません。

1867年12月9日には王政復古の大号令が発せられ、摂政・関白とともに幕府が廃止されました。新政府は総裁・議定・参与という三職を設け、天皇を中心とした政治体制を構築します。

国立公文書館が公開する歴史資料でも、大政奉還から王政復古に至る流れと、幕府が廃止されて新政府が成立した経緯を確認できます。

さらに1868年には鳥羽・伏見の戦いが起こり、旧幕府軍は新政府軍に敗北しました。慶喜は再度の軍事衝突を避けるため恭順の姿勢を示し、江戸城の明け渡しへと進んでいきます。

したがって、江戸幕府の終焉は大政奉還だけで完結したものではなく、王政復古や戊辰戦争など複数の政治・軍事的な出来事が重なった結果です。

【将軍を辞めた理由】慶喜の決断は逃げだったのか、それとも政治戦略だったのか

徳川慶喜について、現在でも議論されるテーマの一つが、将軍職を辞めた理由です。

大政奉還を実行した人物でありながら、その後の政治的・軍事的な混乱の中で旧幕府軍を率いる立場から退き、江戸へ戻って謹慎したことから、慶喜の行動にはさまざまな評価があります。

将軍職の返上と大政奉還は別の段階

まず理解したいのは、大政奉還と将軍職の辞職が同じ日ではないことです。

慶喜は1867年10月14日に大政奉還を申し出ました。その後、同月24日には将軍職の返上を申し入れています。そして同年12月9日、王政復古の大号令に伴い、将軍職の辞職が受理されました。

この過程は、単に慶喜が自発的に権力を手放したというだけでは説明できません。朝廷内の政治勢力、薩摩藩などの倒幕派、徳川家の政治的な存続をめぐる駆け引きが関係していました。

大政奉還には徳川家の政治的影響力を残す狙いもあった

歴史研究では、慶喜の大政奉還は、武力倒幕を回避しながら徳川家が新しい政治体制の中で主導権を確保するための戦略だったという見方があります。

実際、慶喜は政権を返上した後も、徳川家が新しい政治体制から完全に排除されることを望んでいたわけではありませんでした。諸藩の有力者が参加する政治体制の中で、徳川家が重要な役割を担う構想がありました。

京都大学の研究者による王政復古の政治過程に関する論考でも、大政奉還後には慶喜と薩摩側を含む勢力が新しい政体をめぐって接近する動きがあったことが指摘されています。

しかし、12月の王政復古によって慶喜を政治の中心から排除する動きが進み、旧幕府と新政府の対立は再び深刻化します。

鳥羽・伏見の戦いと江戸への帰還

1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北しました。

慶喜は大坂城を離れ、海路で江戸へ戻ります。その後、上野の寛永寺で謹慎し、旧幕府側による再戦の動きから距離を置きました。

この行動は、旧幕臣や後世の歴史家から厳しい評価を受けることもあります。一方で、さらなる戦闘による被害を避けるために恭順を選んだという見方もあります。

江戸城の明け渡しは1868年4月11日。旧幕府側の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛による交渉が、江戸の大規模な市街戦を避けるうえで大きな役割を果たしました。

慶喜の決断を「逃げた」の一言だけで評価することはできません。政治的な権力を維持するための戦略、軍事的な敗北、徳川家の存続、戦争による被害の回避という複数の事情を踏まえて考える必要があります。

【退任後の生活】静岡での謹慎から東京移住、1913年の最期まで

徳川慶喜は将軍職を退いた後、政治の表舞台から離れました。しかし、退任後の人生は決して短いものではありません。1913年まで生き、明治・大正という二つの時代を経験しています。

静岡での謹慎生活と政治からの引退

江戸城の明け渡し後、慶喜は水戸へ移り、謹慎生活を送りました。その後、徳川宗家は田安家出身の徳川家達が継承し、駿河に移ることになります。

慶喜自身も静岡へ移り、1869年に謹慎を解除されました。ただし、解除後すぐに政治の中心へ戻ったわけではありません。その後も長期間にわたって静岡で生活を続けました。

静岡市歴史博物館の展示解説でも、慶喜が謹慎解除後、およそ30年間静岡で暮らしたことが紹介されています。

写真・狩猟・乗馬など趣味を楽しんだ晩年

退任後の慶喜は、政治活動よりも趣味に時間を費やす生活を送りました。

特に知られているのが写真です。当時の写真技術はまだ一般に広く普及していませんでしたが、慶喜は撮影に熱心に取り組み、写真の腕前を磨きました。

また、鷹狩や乗馬、和歌、俳句、囲碁、書、能などにも親しんだとされています。政治家としての厳しい生活とは異なる、文化的な活動を楽しむ時間を過ごしていました。

こうした晩年の暮らしは、徳川家の政治的な立場が大きく変化した後も、慶喜が新しい時代に適応していったことを示しています。

1897年の東京移住と公爵への叙爵

1897年、慶喜は長年暮らした静岡を離れ、東京へ移住しました。

1902年には公爵に叙せられ、華族としての地位を得ます。これは、明治政府との関係が変化し、かつての将軍が新しい国家体制の中で一定の社会的地位を認められたことを示す出来事です。

1913年11月22日、慶喜は東京で亡くなりました。享年76歳です。国立国会図書館の人物紹介にも、1837年生まれ、1913年没という生没年と、将軍退任後の静岡での生活が記録されています。

【徳川慶喜は何代目の将軍なのか】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:徳川慶喜は何歳で15代将軍になったのですか?

A1:徳川慶喜は29歳で第15代将軍になりました。1837年10月28日に生まれ、1867年1月10日(慶応2年12月5日)に将軍宣下を受けています。

Q2:徳川慶喜の将軍在任期間はどれくらいですか?

A2:西暦換算では1867年1月10日から1868年1月3日までです。約1年に満たない在任期間で、歴代徳川将軍の中でも特に短い期間でした。

Q3:徳川慶喜は大政奉還によって江戸幕府を終わらせたのですか?

A3:大政奉還は、慶喜が政治権限を朝廷に返上した出来事です。ただし、幕府の廃止はその後の王政復古の大号令によって進められました。さらに鳥羽・伏見の戦いや江戸城の明け渡しなどを経て、江戸幕府の終焉が現実のものとなりました。

徳川慶喜は、江戸幕府の第15代将軍であり、徳川幕府最後の将軍です。14代将軍・徳川家茂の死後に将軍職を継承し、大政奉還によって朝廷へ政権を返上しました。

その後、王政復古の大号令や鳥羽・伏見の戦いを経て江戸幕府は終焉を迎えます。慶喜自身は政治の第一線から退き、静岡での長い生活を経て、1913年に亡くなりました。

慶喜を理解するうえで押さえたいのは、次の3点です。

  • 将軍としての位置づけ:徳川家康から続く15代の将軍の最後を担った人物である。
  • 政治的な決断:大政奉還は、武力倒幕への対抗や徳川家の政治的影響力の維持という側面も持っていた。
  • 歴史的な意義:江戸幕府から明治政府への政治体制の転換期に、重要な決断を下した人物である。

徳川慶喜の評価は、単純に名将だったか、敗北した将軍だったかという二択では語れません。大政奉還によって政治体制の転換を主導した一方、王政復古や戊辰戦争では政治的な主導権を失いました。

その決断と結果を時系列で追うことで、江戸幕府がなぜ終わりを迎えたのか、そして明治という新しい時代がどのように始まったのかが見えてきます。15代将軍という肩書きだけでなく、幕末の政治的な選択と退任後の人生まで理解することが、徳川慶喜という人物を正確に捉える鍵になります。

主な歴史資料・参考情報

- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」
- 東京都江戸東京博物館「徳川一門―将軍家をささえたひとびと―」
- 松戸市戸定歴史館「徳川慶喜・昭武関係年表」
- 国立公文書館「変貌―江戸から帝都そして首都へ―」
- 外務省外交史料館「大政奉還から明治新政府へ」
- 静岡市歴史博物館「明治維新と静岡 徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」

編集上の重要な補足: 「1866年就任」は慶応2年という元号年に基づく一般的な表記です。日付まで西暦換算した場合は1867年1月10日となります。この違いを記事内で説明することで、検索読者が複数の資料を比較した際の混乱を防げます。

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コンテンツディレクター 室井 健太
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