国会議事堂の中央広間に設置されている銅像は、次の3人です。
1. 板垣退助(いたがきたいすけ)
自由民権運動を代表する政治家
明治初期に国会開設を求める運動を展開し、日本で最初の政党とされる自由党の党首を務めました。国民の政治参加や議会制度の発展に大きな役割を果たした人物です。
板垣退助の銅像が選ばれた背景には、政府主導の政治に対して、国民の代表による議会政治を求めた歴史があります。
2. 伊藤博文(いとうひろぶみ)
初代内閣総理大臣・憲法制定の中心人物
日本の初代内閣総理大臣で、大日本帝国憲法の起草に中心的な役割を果たしました。また、初代貴族院議長を務めています。
伊藤博文は、近代日本の国家制度や議会制度の形成を象徴する政治家です。
3. 大隈重信(おおくましげのぶ)
日本初の政党内閣を率いた政治家
日本初の政党内閣の総理大臣を務め、立憲改進党の党首として議会政治の確立に尽力しました。
大隈重信は、政党を基盤とする政治の発展を象徴する存在です。
3人に共通するのは、政治的な立場や経歴は異なっていても、日本の議会制度の基礎づくりに関わったことです。
参議院の公式案内でも、3人は議会政治の基礎を築くために功績のあった人物として紹介されています。
4人目の銅像がないのはなぜ?中央広間を見学すると、3体の銅像とは別に、銅像が置かれていない台座があることに気づきます。
いわゆる「4つ目の台座」です。
参議院の公式解説では、4人目を誰にするか人選できず、将来に持ち越されたといわれていることが紹介されています。
もう一つ伝えられているのが、政治には完成がなく、常に理想に向かって進み続けるという意味を込めて、あえて空けてあるという説です。
ただし、この象徴的な解釈が設置当初から正式に定められた理由だと確認できるわけではありません。
参議院の子ども向け解説でも、4人目が誰になる予定だったのかは分かっていないと説明されています。
この空の台座は、単なる建築上の空間ではなく、国会議事堂の銅像を語るうえで欠かせない存在になっています。
【設置場所を詳しく解説】永田町の国会議事堂と中央塔・左右対称の構造

銅像が置かれているのは、国会議事堂の正面玄関から入った先にある中央広間です。
最初に、建物そのものの基本情報を整理します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 国会議事堂 |
| 所在地 | 東京都千代田区永田町1丁目7番1号 |
| 竣工 | 1936年(昭和11年)11月 |
| 着工 | 1920年(大正9年)1月 |
| 建築構造 | 鉄骨鉄筋コンクリート造 |
| 建物の特徴 | 中央塔を中心とする左右対称の構成 |
| 中央塔の高さ | 約65.45メートル |
| 中央広間の高さ | 32.62メートル |
これらは衆議院の国会施設案内に掲載されている建築データです。
銅像が設置されている中央広間とは?中央広間は、中央塔の真下に位置する吹き抜け空間です。
主な特徴は次のとおりです。
- 広さは約267.65平方メートル。
- 天井までの高さは32.62メートル。
- 2階から6階部分にまたがる吹き抜け。
- 天井や窓にはステンドグラスを使用。
- 床には複数種類の大理石によるモザイク装飾。
この空間は、中央玄関から中央階段、天皇陛下の御休所へとつながる重要な位置にあります。
特に目を引くのが、上部から自然光を取り込むステンドグラスです。大きな吹き抜けと相まって、議事堂の中でも象徴的な空間を形成しています。
衆議院の施設案内では、中央広間に3人の銅像が三方に立っていることも説明されています。
衆議院と参議院はどちら側にある?国会議事堂の外観は、中央塔を軸に左右対称の構成になっています。
正面から見た場合、配置は次のとおりです。
国会議事堂の左右配置
左側衆議院
正面から見た左
右側参議院
正面から見た右
中央塔・中央広間
中央広間の三方に3人の銅像
正面から見た配置の概念図
現在の参議院は、戦前の貴族院に相当する議院として設けられました。
このように、国会議事堂は単に大きな建築物というだけでなく、二院制の議会制度を建築によって表現した施設でもあります。
【銅像の由来と歴史】1938年に設置された本当の理由
国会議事堂の銅像について、特に押さえておきたいのが制作年です。
現在の議事堂が完成したのは1936年ですが、中央広間の3体の銅像が制作されたのは、1938年(昭和13年)です。
つまり、建物の竣工と銅像の設置は同じ年ではありません。
大日本帝国憲法発布50年を記念した制作参議院の公式解説によると、銅像は大日本帝国憲法発布50年を記念して制作されました。
3人が選ばれた背景には、それぞれ異なる形で議会政治の発展に貢献した経歴があります。
- 板垣退助:国会開設を求めた自由民権運動。
- 伊藤博文:大日本帝国憲法の制定と議会制度の整備。
- 大隈重信:政党政治の発展と政党内閣の成立。
国立国会図書館の議会政治展示会資料には、1938年2月10日に銅像の除幕式が行われたことも記録されています。
除幕式では、衆議院議長の式辞の後、3人の子孫にあたる少女たちが除幕の綱を引いたとされています。
なぜ3人が選ばれたのかここで注目したいのは、3人が同じ政治思想や政治的立場を持っていたわけではないという点です。
板垣退助は自由民権運動を通じて国民の政治参加を求めました。
伊藤博文は近代国家の制度設計を進め、憲法制定に中心的な役割を果たしました。
大隈重信は政党政治の発展に貢献しました。
この3人を並べることで、議会政治の成立から制度化、そして政党政治の発展までを象徴的に表現できます。
銅像の設置は、単に歴代の有力政治家を顕彰するためだけではなく、国会という制度がどのような歴史を経て成立したかを伝える役割も担っているのです。
1936年の竣工と1938年の銅像設置を混同しないインターネット上では、国会議事堂の完成年と銅像の設置年が混同されることがあります。
整理すると、建物は1936年11月に竣工し、中央広間の銅像は1938年に制作されました。
この2年間の違いは、国会議事堂の歴史を調べる際の要点です。
【妻木頼黄・矢橋賢吉とは?】国会議事堂の設計者と建設までの経緯
国会議事堂の建設には、多くの建築家や技術者、行政機関が関わっています。
その中でも、妻木頼黄と矢橋賢吉は、建設の歴史を理解するうえで欠かせない人物です。
ただし、現在の建物を2人だけの設計作品として説明するのは正確ではありません。
設計方針の検討、設計競技、実施設計、建設工事と、複数の段階で担当者が交代しているためです。
妻木頼黄は初期の建設構想を主導大蔵省臨時建築部長として議院建築の計画や調査に関わった建築家です。
日露戦争後、国会議事堂の本建築を実現しようという動きが強まりました。
1906年(明治39年)には衆議院から議院建築に関する建議案が提出され、海外の議事堂の調査や建築予定地の測量などが進められます。
妻木は、設計競技で広く案を募集する方法よりも、権威ある専門家が協議して設計案をまとめる方法を重視しました。
一方、建築家の辰野金吾らは設計競技を推進していました。
この対立は、国会議事堂の設計方法をめぐる重要な論争でした。
国立国会図書館の建築史資料によると、妻木は1916年(大正5年)に亡くなり、その後、設計競技が実施される方向に進みました。
矢橋賢吉は建設を技術面から支えた中心人物大蔵省の建築技師として、本議事堂の建設を技術面から指導した人物です。
1918年(大正7年)に臨時議院建築局が設置され、翌1919年までに建築設計競技が実施されました。
その後、1920年に建設工事が始まります。
矢橋は技師長として工事を指導しましたが、1927年(昭和2年)の上棟式直後に亡くなっています。
その後は大熊喜邦が指導的な立場を担い、建設が進められました。
国会議事堂の設計・建設に関わった人物と組織の関係歴史を整理するため、主要な人物と組織を一覧にしました。
| 人物・組織 | 関わった時期・役割 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 妻木頼黄 | 初期構想 | 大蔵省臨時建築部長として議院建築を主導 |
| 辰野金吾 | 設計競技の推進 | 公募による設計方式を提唱 |
| 渡辺福三 | 1919年 | 建築設計競技の1等入選者 |
| 吉武東里 | 実施設計段階 | 中央屋根のピラミッド形状などの設計に関与 |
| 矢橋賢吉 | 建設段階 | 技師長として建設を指導 |
| 大熊喜邦 | 建設後半 | 矢橋の死後、工事の指導的役割を担う |
| 大蔵省臨時議院建築局 | 1918年以降 | 設計競技と本議事堂の建設を担当 |
この表で重要なのは、妻木頼黄と矢橋賢吉の役割が異なることです。
妻木は初期構想や設計方針の形成に関わり、矢橋は実際の建設を技術面から支えました。
また、設計競技で1等に選ばれたのは渡辺福三の案でしたが、完成した建物はその案をそのまま採用したものではありません。
国立国会図書館の解説では、渡辺案を参考にしながら臨時議院建築局が実際の設計を行い、中央屋根のピラミッド形状には吉武東里の案が反映されたと説明されています。
1920年から1936年まで、建設に17年を要した理由本議事堂の工事は1920年1月に始まり、1936年11月に竣工しました。
工事期間は約17年間です。
長期化した理由には、関東大震災などの影響がありました。
1923年(大正12年)の関東大震災では、建設中の議事堂そのものは大きな被害を免れましたが、その後の火災で大蔵省が全焼しました。
これにより、保管されていた重要な設計図や模型が失われています。
加えて、建設用の鉄材を積んだ船が津波で沈没し、鉄材を再発注する必要も生じました。
こうした複数の事情が重なり、工期が長期化したのです。
【国会議事堂銅像の現在】2026年の見学方法と現地で注目したいポイント
2026年現在も、国会議事堂は現役の国会施設として使用されています。
中央広間の3体の銅像も、議事堂の歴史や議会政治を伝える重要な施設の一部です。
実際に銅像を見るには?参議院では、一般向けの議事堂参観を実施しています。
公式案内によると、見学は係員の案内によるコース形式で、所要時間はおおむね60分です。
参観コースには、参議院議場、御休所、中央広間などが含まれています。
見学時には、次のポイントに注目すると理解が深まります。
1. 3人の銅像:板垣退助・伊藤博文・大隈重信の功績を比較する。
2. 4つ目の台座:なぜ銅像が置かれていないのか、公式解説と伝承を確認する。
3. ステンドグラス:中央広間の採光と建築装飾を見る。
4. 大理石の床:複数種類の石材を用いたモザイク装飾に注目する。
5. 中央塔との位置関係:広間が建物の中心に位置していることを確認する。
国会議事堂
東京都千代田区永田町1丁目7番1号
東京メトロ「国会議事堂前駅」「永田町駅」周辺
参議院の案内係による見学
見学の受付方法、実施時間、公開範囲は参議院の最新案内で確認してください。
なお、国会議事堂は一般の観光施設とは異なり、国会の運営に使用される施設です。見学には受付や案内に関するルールがあります。
訪問前には、参議院の公式「参観(見学)のご案内」を確認するのが確実です。
【情報の見分け方】国会議事堂の銅像に関する誤解と確認すべき史実
国会議事堂の銅像を調べると、人物名や設置理由について複数の説明が見つかります。
特に注意したいのは、確認できる史実と、後世に伝わった解釈を同じものとして扱わないことです。
よくある誤解と正しい理解| 調べる内容 | 確認できる情報 | 注意点 |
|---|---|---|
| 銅像の人数 | 3体 | 4つ目の台座には像がない |
| 銅像の人物 | 伊藤博文・板垣退助・大隈重信 | 3人の功績はそれぞれ異なる |
| 銅像の制作年 | 1938年 | 建物の竣工年1936年とは異なる |
| 設置場所 | 中央広間 | 建物の外観ではなく内部 |
| 4人目の選定 | 人選が持ち越されたという説明 | 具体的な人物名は確認されていない |
| 空の台座の意味 | 政治の未完成を象徴するという説 | 公式に確定した設置理由とは区別する |
| 設計者 | 複数の建築家・技術者が関与 | 妻木や矢橋だけで完成したわけではない |
国会議事堂の銅像について調査する場合、次の公的資料が参考になります。
- 衆議院公式サイト:建物の構造、施設の配置、中央広間の説明。
- 参議院公式サイト:銅像の人物、制作の由来、4つ目の台座、見学情報。
- 国立国会図書館:設計競技、建築家、建設の経緯、歴史的な記録。
- 国立国会図書館の議会政治展示資料:銅像の除幕式や当時の議会政治に関する史料。
特に建築史を調べる場合、1936年刊行の『帝国議会議事堂建築の概要』も重要な資料です。大蔵省営繕管財局が編纂した当時の建築記録で、国立国会図書館に所蔵されています。
検索結果の見出しや短い説明だけでは、建物の竣工年と銅像の制作年、初期構想と実施設計の違いなどを正確に把握できない場合があります。
人物・年代・設置場所を調べる際には、公式資料の本文や歴史的記録まで確認することが大切です。
【国会議事堂の銅像に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:国会議事堂の銅像は誰のものですか?
A1:中央広間に設置されているのは、板垣退助、伊藤博文、大隈重信の3人の銅像です。いずれも日本の議会政治の基礎づくりに功績があった政治家です。
Q2:国会議事堂の銅像はどこにありますか?
A2:中央玄関から入った先にある中央広間です。中央塔の真下に位置し、天井まで32.62メートルある吹き抜け空間の三方に設置されています。
Q3:国会議事堂の銅像はいつ設置されましたか?
A3:1938年(昭和13年)です。参議院の公式案内では、大日本帝国憲法発布50年を記念して制作されたと説明されています。
Q4:国会議事堂に4人目の銅像がないのはなぜですか?
A4:4人目の人選ができず、将来に持ち越されたという説明があります。また、政治に完成はないという象徴的な意味があるという説も伝わっています。
Q5:国会議事堂を設計したのは妻木頼黄ですか?
A5:妻木頼黄は初期の議院建築構想を主導した人物です。ただし、完成した議事堂は1918~1919年の設計競技や、その後の実施設計、建設工事を経て形になりました。矢橋賢吉、渡辺福三、吉武東里、大熊喜邦らも重要な関係者です。
Q6:国会議事堂の銅像は現在も見学できますか?
A6:参議院の一般参観コースに中央広間が含まれています。実施日や受付方法、公開状況は変更される可能性があるため、訪問前に公式案内を確認してください。
国会議事堂の銅像は、単なる建築装飾ではありません。
中央広間に立つ板垣退助、伊藤博文、大隈重信の3人は、それぞれ異なる立場から日本の議会政治の成立と発展に関わった政治家です。
今回の要点を整理すると、次のようになります。
- 銅像の人物は板垣退助・伊藤博文・大隈重信の3人。
- 設置場所は中央塔の真下にある中央広間。
- 銅像の制作年は1938年で、建物の竣工年1936年とは異なる。
- 4つ目の台座には銅像がなく、人選を持ち越したという説明や象徴的な解釈が伝わる。
- 妻木頼黄は初期構想、矢橋賢吉は建設の技術的指導に関わった。
- 実際の設計には渡辺福三や吉武東里らも関係している。
国会議事堂の銅像を理解するうえで大切なのは、人物だけを覚えるのではなく、設置された場所と時代背景を結び付けることです。
1936年に完成した建物に、1938年になって3人の銅像が設置されたという時間的な違いは、その象徴的な意味を考える手掛かりになります。
また、妻木頼黄から矢橋賢吉、渡辺福三、吉武東里らへと続く建設の経緯は、国会議事堂が一人の建築家による作品ではなく、多くの専門家と技術者が関わって完成した国家的事業だったことを示しています。
そして、中央広間に残された4つ目の空の台座。
そこに誰が立つはずだったのか、なぜ空いたままなのかという疑問は、現在も国会議事堂の歴史を考える興味深いテーマです。
国会議事堂を訪れる機会があれば、3人の銅像だけでなく、空の台座や中央広間の建築にも目を向けてみてください。日本の議会政治が歩んできた歴史を、より立体的に感じられるはずです。
主な参考資料:衆議院「国会施設案内」、参議院「国会議事堂案内」「参観(見学)のご案内」、国立国会図書館「国会議事堂ができるまで」「日本近代建築の夜明け」、国立国会図書館「議会開設百三十年記念議会政治展示会目録」。