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【服飾と画風を検証】鎌倉時代の肖像画なのか、南北朝時代の作品なのか

津田 美咲 津田 美咲 • 更新: • 公開: • 読了約 17 分
目次

人物比定を左右する重要な材料が、描かれた人物の装束、冠、太刀、そして絵画の表現技法である。

肖像画は、単に顔が似ているかどうかだけでは人物を特定できない。服飾の流行、武家社会の儀礼、使用された素材、同時代の作品との共通点などを総合的に調べる必要がある。

① 冠や太刀の形式が示す制作年代

米倉迪夫が1995年に発表した足利直義像説では、人物の顔貌だけでなく、冠や太刀の形状が重要な論拠になった。

米倉は、描かれた冠が鎌倉時代末期以降の服飾形式に近いこと、太刀も13~14世紀の特徴を示すことなどから、源頼朝の生きた12世紀後半ではなく、後世に制作された可能性を指摘した。

源頼朝は1147年に生まれ、1199年に亡くなっている。したがって、仮に肖像画の装束や武具が14世紀の形式を反映しているなら、本人の生前に制作されたという従来の説明とは整合しにくくなる。

ただし、後世の作品であることと、描かれた人物が足利直義であることは、別々に検証しなければならない。制作年代が後ろにずれたとしても、それだけで像主が確定するわけではない。

② 足利氏の家紋と武家肖像の特徴

米倉説を紹介する帝国書院の解説では、伝源頼朝像と伝平重盛像の太刀の柄に、足利氏の家紋の一つである桐紋の痕跡があるという指摘も取り上げられている。

もしこれが足利氏と結び付く制作上の特徴であれば、二幅を足利家の人物像と考える根拠になる。ただし、紋様だけで人物を確定することはできず、他の史料との照合が必要になる。

また、南北朝時代には武士の肖像制作が発展していったという美術史上の流れも、異説の背景にある。鎌倉前期にすでにこれほど大規模で写実的な武士肖像が完成していたと考えることに、研究者から疑問が呈されたのである。

③ 京都国立博物館が評価する鎌倉前期の写実性

一方、京都国立博物館の作品解説は、作品を鎌倉時代13世紀のものとして紹介している。

特に注目されるのが、肩を強く張った束帯の表現だ。そこから直線的に下がる袖が三角形の構図を生み、人物全体に安定感と重厚さを与えている。

袍に描かれた唐草文様も、単なる装飾ではない。形式化しきっていない新鮮な表現が残されており、顔の描写には微妙な立体感がある。

博物館はこうした特徴を、鎌倉前期の写実精神を示すものとして評価している。

つまり、同じ作品を見ても、ある研究者は南北朝期の服飾や画風との共通性に着目し、別の研究者は鎌倉前期の表現として評価している。制作年代をめぐる対立は、単なる年代の違いではなく、作品をどの時代の美術史に位置付けるかという問題でもある。

なお、使用された絵絹についても南北朝時代の素材である可能性が指摘されている。素材の年代を検討することは重要だが、絵絹の年代だけで描かれた人物や制作年を確定することはできない。

出典:京都国立博物館の作品解説、帝国書院の歴史FAQ、米倉迪夫『源頼朝像―沈黙の肖像画』。

【2026年最新研究】米倉迪夫・黒田日出男・藤本孝一の見解はどう違う?

源頼朝肖像画

2026年現在、神護寺三像をめぐる研究で注目したいのは、人物の顔貌だけでなく、寄進文書、絵画の大きさ、絵絹、損傷状態、宗教的な意味まで検討対象が広がっていることだ。

米倉迪夫の足利直義説

1995年に米倉迪夫が発表した説は、現在も議論の出発点になっている。

米倉が注目したのは、東山御文庫に伝わる足利直義の願文である。この文書には、足利氏が神護寺を信仰してきたことを背景に、兄の足利尊氏と自身の肖像を制作して寺に奉納する趣旨が記されている。

米倉はこの史料を現存する肖像画と照合し、神護寺三像を足利尊氏・直義・義詮の三人に結び付けた。

また、従来の三幅が同時に制作された一組なのか、それとも異なる時期に制作された作品が後から組み合わされたのかという点にも注目している。

この説の意義は、伝承だけに依存していた人物比定に、南北朝期の具体的な歴史文書を持ち込んだことにある。

黒田日出男が2026年に示した見解

2026年度前期の帝国書院『社会科のしおり』では、歴史学者の黒田日出男が神護寺三像について改めて見解を示している。

黒田は東京大学名誉教授で、絵画史料論や歴史図像学を専門とする研究者だ。2012年には著書『国宝神護寺三像とは何か』を刊行し、米倉説をさらに発展させた。

2026年のインタビューで黒田が強調したのは、南北朝期の史料を読み込むことによって、肖像画の歴史的な意味を解き明かす方法である。

具体的には、『夢中問答集』や『梅松論』などを検討し、足利直義が自身と兄・尊氏の肖像を対にして神護寺に安置したという仮説を提示している。

さらに黒田は、尊氏像を尊氏と八幡大菩薩の二重のイメージ、直義像を直義と聖徳太子、弘法大師の三重のイメージとして読み解いている。

これは、肖像画を単なる人物の顔写真のようなものとして扱うのではなく、政治的・宗教的な象徴を含む絵画史料として読む解釈である。

黒田は2026年のインタビューでも、米倉説と自身の見解に対する今後の検討や批判を歓迎しながら、大筋の解釈は変わらないとの立場を示している。

なお、黒田の三人の人物比定は、伝源頼朝像を足利直義像、伝平重盛像を足利尊氏像、伝藤原光能像を足利義詮像とするものだ。

出典:帝国書院『社会科のしおり』2026年度前期号、黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』。

藤本孝一が2024年に提示した損傷状態からの新説

米倉・黒田説と比較するうえで欠かせないのが、藤本孝一による研究である。

藤本は2024年3月29日刊行の『京都産業大学日本文化研究所紀要』第29号に、「神護寺蔵『源頼朝像』『平重盛像』『藤原光能像』の損傷の検討」を発表した。

この論文で藤本が着目したのは、三幅の保存状態の違いだった。

- 伝源頼朝像:ほとんど損傷がない。
- 伝平重盛像:軸から剥がされ、折り畳まれた痕跡がある。
- 伝藤原光能像:腹部に大きな損傷がある。

藤本は、こうした損傷の違いを南北朝時代の政治対立と関連付けて考察した。

その仮説では、観応の擾乱で対立した足利尊氏と直義の関係が重要になる。直義が神護寺に依頼し、尊氏の肖像を用いた呪詛を行わせた結果、特定の肖像に損傷が生じた可能性を指摘している。

この解釈に基づく藤本の2024年論文での人物比定は、伝源頼朝像が源頼朝、伝平重盛像が足利直義、伝藤原光能像が足利尊氏という組み合わせだ。

ここで注意したいのは、損傷があるという観察と、呪詛によって損傷したという歴史的解釈は同じではないことだ。前者は作品の物理的状態に関する検討であり、後者は当時の政治状況を踏まえた藤本の仮説である。

それでも、人物比定を顔貌や装束だけでなく、作品がどのように扱われ、保存されてきたかという観点から考え直した点は重要だ。

出典:藤本孝一「神護寺蔵『源頼朝像』『平重盛像』『藤原光能像』の損傷の検討」京都産業大学日本文化研究所紀要第29号。

2025年から2026年にかけての研究の広がり

研究は人物比定の論争だけにとどまっていない。

立命館大学の研究者学術情報データベースには、同大学の美川圭による神護寺画像関連の研究発表として、次の記録が掲載されている。

- 2025年11月3日:「歴史学から見る神護寺三肖像画」
- 2025年11月30日:「源頼朝像から後鳥羽上皇像へ―神護寺と水無瀬―」
- 2025年12月20日:「神護寺画像から見た院政―源頼朝像の輸入絵絹をめぐって―」

これらの発表題目からは、人物比定に加えて、輸入絵絹や院政期の政治・文化環境、後鳥羽上皇の肖像との関係などが研究上の論点になっていることが分かる。発表題目だけでは個々の結論までは判断できないが、研究対象が広がっていることを示す動きだ。

また、2024年7月24日には、東京国立博物館で特別展「神護寺―空海と真言密教のはじまり」に関連したシンポジウム「神護寺三像を読み解く」が開催された。

このシンポジウムでは、研究史、刀装、有職故実、絵画表現という複数の視点から三像を検討し、研究員による総合討議も行われた。人物の特定には美術史だけでなく、工芸史や服飾史の知見も必要であることを示す機会だった。

したがって、2026年時点の研究状況を理解するには、1995年の米倉説だけでなく、黒田による史料読解、藤本による損傷分析、さらに近年の素材・服飾研究まで視野に入れる必要がある。

出典:立命館大学研究者学術情報データベース、東京国立博物館のシンポジウム開催記録。

【もう一つの有力な手掛かり】甲斐善光寺の源頼朝坐像とは?

神護寺の伝源頼朝像をめぐる議論で、見落とせないのが山梨県甲府市の甲斐善光寺に伝わる木造源頼朝坐像である。

この作品は神護寺の絹本肖像画とは異なり、木材から造られた坐像である。両者は同じ源頼朝の肖像をめぐる資料だが、制作方法も伝来も異なる。

北条政子の発願を示す胎内銘

甲斐善光寺の坐像が注目される理由は、像の内部に記された銘文にある。

歴史学者の黒田日出男は、胎内銘の解読を通じて、この坐像が頼朝の死後まもなく、妻の北条政子の発願によって制作されたという見解を示している。

この解釈が正しければ、頼朝の存命中に近い時期に制作された像として、本人の顔貌を知るための重要な資料となる。

黒田は2026年度前期の帝国書院のインタビューでも、神護寺の伝源頼朝像と甲斐善光寺の坐像の顔貌が大きく異なることに言及し、後者を頼朝の姿を伝える確かな像として教科書に採用した理由を説明している。

ただし、こちらも胎内銘の解釈や修理履歴を含めた研究上の見解であり、神護寺三像の人物比定を直接証明するものではない。

重要なのは、源頼朝の肖像を一枚の絵画だけで判断するのではなく、異なる媒体の作品と同時代の史料を照合することである。

出典:帝国書院の歴史FAQ、2026年度前期『社会科のしおり』。

【プロの結論】源頼朝肖像画の真相を判断する5つのポイント

ここまでの研究を整理すると、伝源頼朝像の問題は「頼朝か、直義か」という二択だけでは解決できないことが分かる。

判断する際には、次の5つの視点が役立つ。

1. 作品名と人物の確定を混同しない

京都国立博物館が「伝源頼朝像」として紹介していることは、作品の伝承と文化財としての位置付けを示している。人物が本人と確定したことを意味しない。

2. 古記録と現存作品の対応を確認する

『神護寺略記』に人物名が記されていることと、現在の三幅がその人物を描いたものだということは、別の証明を必要とする。古記録と絵画の間にどのような対応関係があるかが重要だ。

3. 服飾や武具から制作年代を検討する

冠、束帯、太刀などは、制作時期を推定する手掛かりになる。ただし、後世の模写や改変、修理の可能性も考慮しなければならない。

4. 三幅を一組として検証する

一幅だけでは見えない共通点や違いが、三幅を比較すると浮かび上がる。画風、寸法、絵絹、損傷、構図の共通性を調べることが、制作時期や人物比定の検討につながる。

5. 学説の発表時期と根拠を確認する

1995年の米倉説、2012年の黒田の著作、2024年の藤本論文、2026年度前期の黒田の見解は、それぞれ異なる史料や分析方法に基づいている。単に「最新説」と紹介されたものを正解とせず、どの証拠から何を導いているかを確認したい。

この5点を踏まえると、2026年時点では、足利直義を含む南北朝期の人物像とする説には複数の研究上の根拠があり、重要な対立仮説として扱われている。一方、藤本のように伝源頼朝像について従来の人物比定を維持する研究も存在する。

したがって、現在の研究状況を「源頼朝ではないと完全に証明された」とまとめるのも、「従来どおり頼朝本人で間違いない」と断定するのも正確ではない。

【源頼朝肖像画】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:源頼朝の有名な肖像画はどこにありますか?
A1:有名な「伝源頼朝像」は京都市右京区の神護寺が所蔵し、京都国立博物館に寄託されています。国宝に指定された絹本著色の掛幅です。

Q2:伝源頼朝像は足利直義を描いたものなのですか?
A2:足利直義像説は1995年に米倉迪夫が提起した有力な異説です。黒田日出男もこの説を発展させています。ただし、藤本孝一は2024年の論文で伝源頼朝像を源頼朝とする人物比定を提示しており、最終的な決着はついていません。

Q3:神護寺三像とは何ですか?
A3:神護寺に伝わる国宝の肖像画三幅の総称です。「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能像」の三作品を指します。

Q4:伝源頼朝像の作者は藤原隆信ですか?
A4:藤原隆信の筆と伝えられています。ただし、作品に作者の署名があるわけではありません。三幅の筆致にも違いがあり、隆信本人がすべてを描いたのか、一門の絵師が制作したのかという問題も残っています。

Q5:伝源頼朝像が国宝になったのはいつですか?
A5:明治30年(1897年)に古社寺保存法のもとで国宝に指定され、昭和26年(1951年)に文化財保護法のもとで改めて国宝に指定されました。現在の指定名称には「伝」が付いています。

Q6:2026年現在、最も有力な説はどれですか?
A6:米倉迪夫・黒田日出男による足利氏の肖像画説が重要な研究仮説として存在します。一方、藤本孝一は三幅の損傷状態から異なる人物比定を提示しています。公式の作品名称と京都国立博物館の作品情報は、現在も「伝源頼朝像」のままです。

Q7:本当の源頼朝の顔を伝える肖像はほかにありますか?
A7:山梨県甲府市の甲斐善光寺に木造源頼朝坐像が伝わっています。黒田日出男は胎内銘を根拠に、北条政子の発願によって頼朝の死後まもなく制作された像とする見解を示しています。

神護寺の国宝「伝源頼朝像」は、長年にわたって源頼朝の代表的な肖像画として知られてきた。しかし、人物を直接特定する銘文がなく、『神護寺略記』との対応関係にも検討の余地があることから、1995年の米倉迪夫による足利直義像説をきっかけに研究が大きく進展した。

その後、黒田日出男は南北朝期の史料や絵画の象徴性を分析し、足利氏三人の肖像画とする説を発展させた。一方、藤本孝一は2024年に三幅の損傷状態を詳細に検討し、源頼朝・足利直義・足利尊氏という別の人物比定を提示している。

さらに2026年には、黒田が帝国書院のインタビューで自身の見解を改めて説明し、2025年の研究発表でも輸入絵絹や院政期の肖像画をめぐる論点が取り上げられている。

現段階で押さえておきたいのは、次の3点だ。

  • 伝源頼朝像は、人物比定に議論が残る国宝である。
  • 足利直義像説には、願文、服飾、画風など複数の検討材料がある。
  • 藤本孝一らによる異なる解釈もあり、研究は一つの結論に収束していない。

肖像画は、描かれた人物の顔を後世に伝えるだけの存在ではない。誰が制作を依頼し、どのような目的で寺院に奉納し、どのように保存されてきたのか。その背景には、政治、信仰、文化、権力の関係が刻まれている。

伝源頼朝像の本当の姿を考えることは、源頼朝という歴史上の人物を知るだけでなく、鎌倉時代から南北朝時代にかけての日本の肖像文化そのものを理解することにつながる。

2026年以降も、絵絹の素材分析、服飾史料、古文書の再検討、三幅の比較研究が進めば、これまで見過ごされてきた新たな手掛かりが見つかる可能性がある。国宝の名称に残された「伝」の一文字は、今もなお歴史研究に開かれた問いを示している。

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津田 美咲

スポーツ報道7年。連盟の公式記録、試合結果、会見の書き起こしで数値と経歴を確認しています。

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