ホーム スポーツ 輪島大士の波瀾万丈な生涯とは?第54代横綱の栄光と花籠部屋廃業、プロレス転身の全貌

輪島大士の波瀾万丈な生涯とは?第54代横綱の栄光と花籠部屋廃業、プロレス転身の全貌

室井 健太 室井 健太 • 更新: • 公開: • 読了約 25 分
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輪島大士(わじま・ひろし)は、石川県七尾市出身の第54代横綱であり、「黄金の左」を武器に昭和の大相撲を代表する名力士として活躍した人物です。本名は輪島博。1973年に横綱へ昇進し、幕内優勝14回を記録。ライバルの北の湖とともに「輪湖時代」を築きました。

しかし、1981年の現役引退後は、花籠親方としての活動、年寄名跡を借金の担保にした問題による花籠部屋の廃業、全日本プロレスへの転身など、波乱に満ちた人生を歩みます。結婚相手の中島五月、後援会長だった安倍晋太郎との関係、息子の輪島大地、そして引退後の活動にも注目が集まってきました。

2018年10月8日に70歳で亡くなった輪島大士。その栄光と挫折を2026年の現在から振り返り、公式記録や当時の報道、関係者の証言をもとに、生涯の重要な出来事を時系列で解説します。

【プロフィール】輪島大士とは?本名・出身地・経歴を解説

輪島大士

輪島大士は、1948年1月11日に石川県七尾市で生まれました。本名は輪島博で、四股名と本名の読み方はどちらも「わじま・ひろし」です。

大相撲では花籠部屋に所属し、学生相撲出身力士として異例のスピードで出世しました。現役時代の身長は日本相撲協会の公式プロフィールで184.5cm、体重125kgと記録されています。

横綱昇進後も四股名を変更せず、本名と同じ名前で土俵に立ち続けたことも特徴です。「蔵前の星」「黄金の左」といった愛称で親しまれ、引退後は「ワジー」の愛称でも知られました。

学生相撲で頭角を現した日本大学時代

輪島は金沢高校を経て日本大学へ進学し、相撲部で実力を磨きました。大学3年時と4年時には、2年連続で学生横綱に輝いています。

当時の大学相撲界で圧倒的な実績を残した輪島は、卒業を控えた1970年1月場所、花籠部屋から幕下付け出しで初土俵を踏みました。

大学で培った技術と身体能力をプロの土俵でも発揮し、初土俵からわずかな期間で番付を駆け上がります。1970年5月場所には十両、1971年1月場所には幕内へ昇進しました。

学生横綱から大相撲の頂点へ進んだ輪島の存在は、大学相撲出身者がプロの世界でも活躍できることを示す象徴的な事例となりました。

第54代横綱への昇進

1972年5月場所では幕内初優勝を達成。同年11月場所後に大関へ昇進し、翌1973年7月場所には第54代横綱となりました。

日本相撲協会の歴代横綱公式記録によると、輪島の横綱在位期間は1973年7月から1981年3月までです。学生相撲出身力士として初めて横綱に昇進した点も、相撲史に残る大きな功績です。

出身地の石川県七尾市にとっても、地元から生まれた横綱として大きな存在でした。本名と同じ四股名で横綱まで上り詰めたという個性も、輪島の人物像を印象づけています。

【横綱時代】黄金の左と北の湖との輪湖時代が残した功績

輪島大士の相撲を語るうえで欠かせないのが「黄金の左」です。左を差して相手の懐に入り、強烈な下手投げで勝負を決める取り口は、多くの相撲ファンを魅了しました。

黄金の左はなぜ強かったのか

輪島の得意技は左四つからの下手投げや寄り切りでした。単に左腕の力が強かったわけではありません。右から相手を強く絞り、相手の体勢を崩してから左を差す技術に優れていたのです。

右のおっつけで相手の動きを制限し、左下手を確保してから投げる。この一連の動作には、力任せではない高度な技術とタイミングがありました。

日刊スポーツなどの当時を振り返る報道では、輪島が金色の締め込みを使用したことも紹介されています。1975年ごろから金色の締め込みが印象的な姿となり、左から繰り出す豪快な技と結びついて「黄金の左」という呼び名が定着しました。

この愛称は現役時代だけでなく、後年のプロレスラー時代にも引き継がれ、輪島を象徴する言葉として残っています。

北の湖とのライバル関係が生んだ輪湖時代

輪島の横綱時代を語るうえで、もう一人欠かせない人物が第55代横綱・北の湖です。

両者は1970年代から1980年代初頭にかけて優勝争いを繰り広げました。日刊スポーツの回顧記事によれば、現役時代の対戦は44回。互いに実力を認め合うライバルとして、昭和の大相撲を盛り上げました。

輪島が左下手投げを武器に攻める一方、北の湖は強靱な体格と圧倒的な寄りを持ち味としていました。異なる相撲の型を持つ二人が優勝を争ったことで、毎場所の取組に大きな注目が集まりました。

この時代は「輪湖時代」と呼ばれ、昭和相撲史を代表する黄金期の一つとして語り継がれています。

輪島の相撲成績と主な記録

日本相撲協会の公式プロフィールによると、輪島の生涯戦歴は673勝234敗85休。幕内では620勝213敗85休を記録しています。

幕内優勝は14回。横綱としての実績だけでなく、大関時代からの安定した強さも際立っていました。

  • 最高位:第54代横綱
  • 幕内優勝:14回
  • 横綱在位:1973年7月~1981年3月
  • 生涯戦歴:673勝234敗85休
  • 幕内戦歴:620勝213敗85休
  • 得意技:左四つ、下手投げ、寄り切り
  • 主なライバル:北の湖

これらの記録は、日本相撲協会の歴代横綱プロフィールに掲載されています。輪島は単に話題性の高い横綱だったのではなく、数字でも歴史に残る実績を持つ力士でした。

【経歴年表】引退から花籠部屋廃業、年寄名跡問題までの真相

輪島の人生における大きな転換点は、1981年の現役引退と、1985年に表面化した年寄名跡の担保問題です。

横綱として頂点を極めた人物が、なぜ相撲協会を離れなければならなかったのか。その背景には、親方としての立場と年寄名跡をめぐる深刻な金銭問題がありました。

1981年、花籠親方として部屋を継承

輪島は1981年3月場所で現役を引退しました。横綱としての実績を残した後、12代花籠を襲名し、花籠部屋の師匠となります。

親方として弟子を育てる立場になった輪島は、審判委員なども務めました。1982年には輪鵬や花ノ国らの関取昇進にも関わり、指導者としての活動を始めています。

しかし、現役時代の華やかな人気とは対照的に、親方としての生活は長く続きませんでした。

年寄名跡を借金の担保にした問題とは?

1985年11月、輪島が所有していた年寄名跡「花籠」を借金の担保にしていた問題が明るみに出ました。

報道によると、実妹が経営する料亭の借金に関連して年寄名跡が担保に入れられていたとされます。借金の規模は約4億円と伝えられました。

年寄名跡は、引退した力士が日本相撲協会に親方として残るために必要な重要な資格と結びついています。その名跡を金銭の担保として扱ったことは、相撲協会の制度と運営に関わる重大な問題でした。

当時の報道では、輪島は2階級降格と無期限謹慎の処分を受け、その後、1985年12月に日本相撲協会を離れることになります。

この問題によって、横綱時代から継承してきた花籠部屋も存続できなくなりました。後継者を決められないまま部屋は消滅し、所属していた力士たちは、元大関・魁傑が率いていた放駒部屋へ移籍しました。

日刊スポーツの当時を振り返る記事や2024年の相撲部屋閉鎖に関する報道でも、1985年の花籠部屋廃業は年寄名跡を担保にした問題によるものとして整理されています。

花籠部屋はその後どうなった?

ここで注意したいのが、花籠部屋の名称が1985年以降も相撲界に登場することです。

輪島が率いていた花籠部屋は1985年12月に消滅しましたが、1992年には元関脇・太寿山が花籠部屋を再興しています。その部屋も2012年に閉鎖されました。

つまり、輪島による1985年の廃業と、2012年の花籠部屋閉鎖は別の出来事です。同じ部屋の名称が使われているため混同されやすいものの、師匠も経緯も異なります。

輪島大士の生涯を時系列で整理
時期 出来事・関係者 主な意味・実績
1948年1月 石川県七尾市で誕生 本名は輪島博
1970年1月 花籠部屋から初土俵 幕下付け出しで角界入り
1972年 幕内初優勝・大関昇進 横綱候補として頭角を現す
1973年7月 第54代横綱に昇進 幕内優勝14回を記録する時代へ
1970年代~1980年代初頭 北の湖との輪湖時代 昭和相撲を代表するライバル関係
1981年3月 現役引退・花籠親方を襲名 花籠部屋を継承
1985年11~12月 年寄名跡の担保問題・廃業 花籠部屋が消滅、力士は放駒部屋へ移籍
1986年 全日本プロレスに入門 ジャイアント馬場のもとでプロレスに転身
1988年12月 プロレスラーを引退 新たな競技人生に区切り
1990年代以降 アメフト指導・タレント・相撲解説など スポーツやメディア分野で活動
2013年 咽頭がんの手術 発声が困難になるなど健康面に影響
2018年10月8日 東京都内の自宅で死去 70歳で生涯を閉じる

この年表から分かるように、輪島の人生は、相撲界での栄光、親方としての挫折、プロレスへの挑戦、そして引退後の社会活動という複数の段階に分かれています。

【全日本プロレス転身】輪島大士はなぜプロレスラーになったのか

1985年に相撲協会を離れた輪島は、翌1986年、全日本プロレスへ入門しました。

当時の相撲界において、元横綱がプロレスラーに転身することは極めて異例でした。しかも輪島は、単なる話題づくりではなく、実際にプロレスラーとしてリングに上がる道を選んでいます。

ジャイアント馬場との出会いと全日本プロレス入門

輪島を迎え入れたのは、全日本プロレスの社長であり、プロレス界を代表する存在だったジャイアント馬場です。

1986年4月に入門した輪島は、アメリカやプエルトリコで海外修行を経験しました。同年8月にはアメリカでジャイアント馬場とタッグを組んでデビューし、11月には故郷の石川県で国内デビューを果たします。

国内デビュー戦の相手は、タイガー・ジェット・シンでした。凶暴なファイトスタイルで知られる相手との試合は大きな話題となり、両者反則による引き分けという結果になりました。

元横綱のプロレス転向は、当時のスポーツ界に大きな衝撃を与えました。全日本プロレスにとっても、輪島の知名度は地方興行やテレビ中継への注目を集める強力な材料でした。

必殺技ゴールデン・アームボンバー

プロレスラー時代の輪島を象徴する技が「ゴールデン・アームボンバー」です。相撲の喉輪落としを応用した技で、相手の首元を腕で押し上げるようにして倒します。

相撲で培った体格と腕力を生かした技であり、「黄金の左」という現役時代のイメージとも結びつきました。

1987年にはリック・フレアーやスタン・ハンセンら強豪選手とのタイトル戦にも出場しています。元横綱という経歴だけでなく、トップレスラーと同じリングに立つことで、その存在感を示しました。

プロレスラーとしての評価と引退

一方で、相撲とプロレスは異なる競技です。横綱として培った技術や体力が、そのままプロレスでの実績につながるわけではありません。

輪島は大きな注目を集めたものの、プロレスラーとしてのキャリアは長く続きませんでした。1988年12月、体力の限界などを理由にリングを去っています。

活動期間は約3年弱。相撲界での14回の幕内優勝と比べると、プロレスラーとしての競技実績は限定的でした。しかし、横綱経験者が新しい世界へ挑戦したという事実は、今も輪島の異色の経歴として語り継がれています。

日刊スポーツの追悼記事では、輪島のプロレス転身について、知名度による集客効果と、新日本プロレスとの興行競争という当時の業界事情も背景にあったと紹介されています。

【結婚・妻・家族】中島五月との披露宴と息子・輪島大地

輪島大士の私生活では、花籠親方の長女だった中島五月との結婚が広く知られています。横綱として人気の絶頂にあった時期の結婚であり、披露宴の規模も大きな話題となりました。

1981年1月29日、中島五月と結婚

輪島は1981年1月29日、当時の師匠である花籠親方の長女・中島五月と結婚しました。

結婚披露宴では、当時の後援会長だった安倍晋太郎と妻の洋子が媒酌人を務めました。安倍晋太郎夫妻と輪島の間には、後援会を通じた関係がありました。

この結婚式は、スポーツ紙などで費用約1億5000万円、招待客約3000人と報じられています。会場は東京プリンスホテルの鳳凰の間でした。

2019年の文春オンラインでは、中島五月本人の証言を交え、披露宴の準備や当時の様子が紹介されています。報道された費用や招待客数は、披露宴の規模を示す数字として知られています。

ただし、1億5000万円という数字はスポーツ紙などで報じられた金額であり、公式な会計資料によって確定された数字として扱うものではありません。

中島五月との結婚生活と離婚

結婚後の家庭生活は順風満帆とはいきませんでした。1982年には五月をめぐる自殺未遂騒動が報じられ、その後、二人は離婚しています。

当時の輪島は、横綱から花籠親方へと立場が変わる時期にありました。相撲界での責任や部屋の運営など、生活環境も大きく変化していた時期です。

中島五月との結婚は、単なる有名人同士の婚姻ではなく、師匠の娘と弟子という相撲部屋特有の関係性も背景にあった出来事でした。

1996年の再婚と妻・留美

輪島は1996年2月、23歳年下の元モデルの一般女性と再婚したと伝えられています。

後年の報道では、妻の名前は留美さんと紹介され、2018年の訃報でも喪主を務めた人物として報じられました。

輪島には長女と長男がいたことも報道されています。家族については、相撲やプロレスの活動ほど詳しい情報が公表されているわけではありませんが、晩年まで妻や子供たちが家族として支えていたことがうかがえます。

息子・輪島大地は天理高校の野球部で活躍

輪島の長男として知られるのが輪島大地です。2017年、大地は奈良県の強豪・天理高校の投手として、第99回全国高等学校野球選手権大会に出場しました。

注目されたのは、同年8月20日の準々決勝・明豊高校戦です。輪島大地は9回に2番手投手として登板しました。

試合では連打と四球で満塁のピンチを招き、代打に満塁本塁打を浴びて降板しています。日刊スポーツは、この試合を「天理・輪島ジュニア初登板で史上初の代打満塁被弾」と報じました。

大地はその後も高校野球を続け、同年10月の愛媛国体では広陵高校戦に登板。2回を投げて2安打1奪三振、無失点という成績を残し、高校最後の登板を終えました。

当時の報道では、卒業後にアメリカかカナダへの留学を検討し、将来はIT企業への就職やアプリ開発に関心を持っていたことも紹介されています。

父親が昭和の大横綱であったことから注目を集めましたが、輪島大地自身も強豪校の野球部で努力を重ねた選手でした。

【引退後の活動と晩年】相撲解説・アメフト指導から2018年の死去まで

プロレスを引退した輪島は、その後もスポーツやメディアの分野で活動を続けました。相撲界を離れたからといって、スポーツとの関係が途切れたわけではありません。

アメリカンフットボールの総監督に就任

輪島はプロレス引退後、アメリカンフットボールの指導にも携わりました。

1991年には学生援護会アメリカンフットボール部の総監督に就任し、日本社会人アメリカンフットボール協会の理事も務めています。

その後もアメフトのクラブチーム「ROCBULL」の総監督を務めるなど、競技の枠を超えてスポーツ界との関わりを持ち続けました。

キューバの相撲指導や地元・石川県への貢献

輪島の活動は国内だけにとどまりません。キューバの相撲ナショナルチーム監督を務めるなど、相撲の普及にも関わりました。

また、能登観光協会大使や石川県観光親善大使として、故郷の魅力を発信する活動にも携わっています。

地元企業である水産物販売会社スギヨのCMにも出演し、「スギヨふるさとの味大使」として地域の食文化をPRしました。

七尾市出身の横綱という知名度を生かし、スポーツだけでなく観光や地域振興にも貢献したことは、引退後の輪島を語るうえで見逃せない部分です。

テレビでの相撲解説やタレント活動

輪島はテレビ番組にも出演し、一時期はTBS系の「サンデーモーニング」などで相撲解説を担当しました。

また、タレントとしてバラエティー番組にも登場し、現役時代とは異なる親しみやすい一面を見せていました。

横綱という肩書を持ちながら、プロレスラー、アメフト指導者、テレビ出演者、観光大使と活動の幅を広げたことは、輪島の経歴を特徴づけています。

2013年の咽頭がん手術と晩年

晩年の輪島を苦しめたのが病気でした。2013年に咽頭がんの手術を受け、発声が困難になったことが報じられています。

2015年にライバルだった北の湖が亡くなった際には、輪島も追悼のコメントを寄せました。発声が難しい状態だったため、文書で思いを伝えたと日刊スポーツが報じています。

かつて土俵上で激しく競い合った二人は、晩年にはそれぞれ病と向き合う立場となっていました。

輪島大士の死去は2018年10月8日

輪島大士は2018年10月8日午後8時、東京都世田谷区の自宅で亡くなりました。享年70歳でした。

日刊スポーツなどの報道によると、死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱でした。2018年10月9日に訃報が報じられ、昭和の大横綱の死を多くのスポーツ関係者や相撲ファンが悼みました。

日本大学時代に学生横綱となり、1973年に第54代横綱へ昇進。幕内優勝14回を成し遂げた後、花籠部屋の廃業やプロレス転身を経験し、晩年までスポーツや地域活動に携わった輪島。

その70年の生涯は、華やかな成功と大きな挫折の両方を含むものでした。

【プロの結論】輪島大士の経歴で誤解されやすい4つのポイント

輪島大士の生涯を理解するには、横綱としての記録だけでなく、引退後の出来事を正確に整理する必要があります。特に、インターネット上では複数の出来事が混同されやすいテーマがあります。

1. 黄金の左は単なる腕力ではなく技術の象徴

「黄金の左」という言葉から、左腕の強さだけを想像する人もいます。しかし、実際には右から相手を絞り、左を差して下手投げにつなげる一連の技術が輪島の強さでした。

相撲における組み手の重要性や、相手の重心を崩す技術を理解すると、輪島が14回もの幕内優勝を成し遂げた理由が見えてきます。

2. 花籠部屋の廃業は年寄名跡の担保問題が原因

輪島が花籠親方を務めていた部屋は、1985年の年寄名跡を担保にした問題をきっかけに廃業しました。

単に経営不振で部屋を閉じたのではなく、親方としての資格に関係する名跡を借金の担保にしたことが大きな問題となったのです。

3. 1985年の花籠部屋廃業と2012年の閉鎖は別

輪島が率いた花籠部屋は1985年に消滅しました。その後、別の師匠によって1992年に再興され、2012年に再び閉鎖されています。

検索結果で「花籠部屋の廃業理由」を調べる際には、どの時期の花籠部屋を指しているのかを確認することが大切です。

4. 1億5000万円の披露宴費用は報道された数字

中島五月との結婚披露宴については、費用1億5000万円、招待客3000人という数字が広く知られています。

ただし、これは当時のスポーツ紙などが報じた数字です。確定した会計資料の金額と同じ意味ではありません。結婚式の規模を理解するための報道情報として捉えるのが適切です。

輪島の経歴を調べる際には、本人の競技記録、当時の新聞報道、関係者の回想を区別すると、事実関係をより正確に理解できます。

輪島大士に関するよくある質問(FAQ)

Q1:輪島大士の本名と出身地はどこですか?
A1:本名は輪島博(わじま・ひろし)です。1948年1月11日に石川県七尾市で生まれました。四股名も本名と同じ読み方です。

Q2:輪島大士は第何代横綱で、優勝は何回ですか?
A2:第54代横綱です。幕内優勝は14回で、北の湖との「輪湖時代」を築いた昭和を代表する横綱の一人です。

Q3:輪島大士が花籠部屋を廃業した理由は何ですか?
A3:1985年、年寄名跡「花籠」を借金の担保にしていた問題が発覚したためです。同年12月に相撲協会を離れ、花籠部屋も消滅しました。所属力士は放駒部屋へ移籍しました。

Q4:輪島大士はなぜ全日本プロレスに転身したのですか?
A4:1985年の相撲協会廃業後、1986年に全日本プロレスへ入門しました。ジャイアント馬場のもとで海外修行を経験し、同年にプロレスラーとしてデビューしました。

Q5:輪島大士の妻は中島五月さんですか?
A5:中島五月さんは1981年に結婚した最初の妻です。その後離婚し、輪島は1996年2月に23歳年下の元モデルの一般女性と再婚しました。晩年の妻は留美さんと報じられています。

Q6:輪島大士の息子は誰ですか?
A6:長男は輪島大地さんです。2017年の第99回全国高等学校野球選手権大会では、天理高校の投手として出場し、準々決勝の明豊高校戦で登板しました。

Q7:輪島大士はいつ、何歳で亡くなりましたか?
A7:2018年10月8日、東京都世田谷区の自宅で亡くなりました。70歳でした。報道された死因は、下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱です。

輪島大士は、石川県七尾市から大相撲の頂点へ上り詰めた第54代横綱です。日本大学時代に2年連続で学生横綱となり、1970年に初土俵を踏んでから、わずか3年半ほどで横綱に昇進しました。

「黄金の左」を武器に幕内優勝14回を記録し、北の湖とともに輪湖時代を築いた実績は、今も色あせていません。

一方、1985年の年寄名跡担保問題による花籠部屋の廃業は、横綱としての輝かしい実績とは対照的な出来事でした。その後、全日本プロレスへの転身、アメリカンフットボールの指導、テレビ出演、故郷の観光振興など、相撲以外の分野にも活動を広げました。

結婚や家族についても、中島五月との披露宴、再婚後の妻・留美、長男の輪島大地など、人生の節目ごとにさまざまな出来事がありました。

輪島大士の本質は、単なる元横綱という肩書だけでは語れません。土俵で圧倒的な実績を残しながら、相撲界を離れた後も新しい世界に挑み続けた人物でした。

2018年10月8日に70歳で亡くなった後も、14回の幕内優勝、「黄金の左」、北の湖との輪湖時代、そして異例のプロレス転身は、昭和のスポーツ史を振り返るうえで欠かせない記憶です。

輪島大士の生涯を正しく理解するためには、横綱としての栄光と花籠部屋の廃業という二つの側面を切り離さず、さらにプロレスや引退後の社会活動まで含めて振り返ることが大切です。その波瀾万丈の歩みこそが、今なお多くの人に語り継がれる理由なのです。

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室井 健太
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