札幌丘珠事件とは?1878年のヒグマ襲撃と堺倉吉一家の被害、現場の現在を解説
1878年(明治11年)1月、北海道の開拓が進められていた札幌郡丘珠村で、一頭のエゾヒグマが猟師や開拓民を襲う凄惨な熊害事件が発生した。後に「札幌丘珠事件」と呼ばれるこの出来事は、現在の札幌市東区丘珠町を舞台に、堺倉吉と妻リツ、幼い長男留吉らの生活を一変させた。事件の発端は、冬眠中のヒグマを仕留めようとした猟師の銃撃だったとされる。
被害については、札幌市の歴史資料や北海道大学の解説で「死者3名・重傷者2名」と紹介されている。一方、北海道立文書館に残る開拓使の公文書を改めて読み解くと、猟師の死亡と、堺家の雇人・酉蔵が翌日に死亡した経緯が浮かび上がる。従来の集計と後年の史料研究には重要な違いがある。事件の発生経緯、堺一家の被害、石澤定吉の救援、そして現場が現在どのような土地になっているのかを順に整理する。
【事件の概要】札幌丘珠事件は1878年1月に何が起きたのか?
札幌丘珠事件は、1878年(明治11年)1月、石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村で発生したエゾヒグマによる連続襲撃事件である。
事件の舞台となった丘珠村は、現在の札幌市東区丘珠町にあたる。当時の札幌は、現在のような大都市ではなかった。開拓が始まって間もない地域には原生林や湿地が広がり、人々の暮らしは野生動物の生息域と隣り合わせだった。
事件の直接的な発端は、1月11日に山鼻村の猟師が円山付近の冬眠穴でヒグマを発見し、銃撃したことにある。
銃撃を受けたヒグマはその場で仕留められず、猟師を襲った後、周辺地域へ逃走した。その後、開拓使側による追跡が行われたものの、クマは移動を続け、最終的に丘珠村の堺倉吉宅へ侵入した。
北海道大学の広報・教育活動を担うCoSTEPの解説でも、この事件は冬眠中のヒグマを猟師が仕留め損ね、手負いにしたことが発端と紹介されている。
事件を考えるうえで重要なのは、単に一軒の家がクマに襲われたという話ではない点だ。最初の猟師への襲撃から堺一家の被害まで、複数の地域をまたいで被害が連鎖したのである。
事件の基本データ| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事件名 | 札幌丘珠事件 |
| 発生年 | 1878年(明治11年) |
| 発生期間 | 1月11日~18日 |
| 主な現場 | 石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村 |
| 現在の所在地 | 北海道札幌市東区丘珠町 |
| 加害動物 | エゾヒグマ |
| 主な被害者 | 蛯子勝太郎、堺倉吉、堺留吉、雇人酉蔵など |
| 生存者 | 堺リツ |
| 救援者 | 石澤定吉 |
| 被害人数 | 従来の集計は死者3名・重傷者2名。後年の史料研究では死者4名・負傷者1名とする再検討もある |
【発生経緯】円山での猟師襲撃から丘珠村の惨劇まで
札幌丘珠事件は、1月11日の猟師への襲撃を起点として、約1週間にわたり展開した。
1月11日:冬眠中のヒグマへの銃撃事件の始まりは、円山と藻岩山の間に広がる山林だった。
山鼻村に住んでいた猟師の蛯子勝太郎は、ヒグマを捕獲するため山へ入った。そこで冬眠中のヒグマを発見し、銃撃したとされる。
しかし、銃弾はクマを仕留めるには至らなかった。
目を覚ましたヒグマは猟師に襲いかかり、蛯子勝太郎は命を落とした。ヒグマは冬眠穴に戻らず、そのまま周辺を移動し始めた。
この時点で、単独の狩猟事故にとどまらない危険な状況が生まれていた。
1月16日~17日:開拓使による追跡札幌周辺でヒグマの出没が報告されると、札幌警察署は追跡と駆除のための人員を集めた。
当時の記録を紹介する狩猟専門誌『けもの道』の記事によれば、警察吏の森長保が対応にあたり、1月16日に猟師4人、翌17日に2人を雇い入れて追跡を行った。
ヒグマが移動したとされる地域は、次のとおりである。
- 円山周辺
- 平岸村
- 月寒村
- 白石村
- 雁来村
- 丘珠村
現在の札幌市で考えると、中央区から豊平区、白石区、東区方面へと移動したことになる。
追跡隊はヒグマを発見したものの、クマは逃走を続けた。さらに当時の厳しい冬の天候も追跡を困難にした。
1月17日深夜~18日午前3時:堺倉吉宅への侵入逃走を続けていたヒグマは、丘珠村にある堺倉吉の小屋に侵入した。
北海道立文書館に残る明治11年2月22日付の公文書には、1月18日午前3時、堺倉吉の住居に猛熊が乱入したことが記されている。
倉吉は異変に気づいて外の様子を確認しようとしたところ、ヒグマに襲われた。
妻リツは幼い長男留吉を抱えて逃げようとしたが、ヒグマの攻撃を受けて重傷を負った。
このとき、家の中にいた雇人の酉蔵も襲われ、深刻な負傷を負った。
一方、近くにいた雇人の石澤定吉は、リツの危難に気づき、彼女を背負って危険な場所から避難させた。
公文書には、この救援行為を評価し、石澤定吉に賞与を与えるための手続きが記されている。
この記録は、事件の経緯だけでなく、非常事態の中でリツを救った人物の名前を現在に伝える貴重な資料でもある。
【被害の全貌】堺倉吉・リツ・留吉と雇人たちの運命
札幌丘珠事件を語るうえで中心となるのが、堺倉吉一家の被害である。
堺倉吉:開拓生活を営んでいた一家の主人堺倉吉は、明治初期に丘珠村へ入植した開拓民だった。
妻リツとともに厳しい生活環境の中で暮らし、炭焼きなどを通じて生計を立てていたと伝えられる。
当時の丘珠村には、十分に整備された住宅や防護設備があるわけではなかった。簡素な小屋で生活する開拓民にとって、夜間に大型のヒグマが侵入することは、逃げ場の限られた極めて危険な事態だった。
倉吉は事件当夜、ヒグマに襲われて死亡した。
堺リツ:重傷を負いながら生き延びた妻リツは南部の生まれで、若い頃に北海道へ渡り、倉吉と生活をともにするようになったと伝えられている。
彼女は箱館戦争の混乱などを経て北海道にとどまり、夫とともに丘珠村で開拓生活を送っていた。
事件当夜、リツは幼い留吉を抱えて逃げようとしたが、ヒグマの攻撃によって頭部に重傷を負った。
その後、石澤定吉によって救出されたことで命を取り留めた。
リツは一家の惨劇を生き延びた人物であり、当時の記録や後年の歴史研究にその名前が残されている。
堺留吉:幼い長男も犠牲に堺倉吉とリツの長男が留吉である。
事件当夜、母リツは留吉を抱いて逃げようとしたものの、襲撃の中で子どもを取り落としてしまった。
留吉もヒグマの攻撃を受け、命を落とした。
幼い子どもまで犠牲になったことは、この事件が開拓民の生活に与えた衝撃の大きさを物語っている。
雇人・酉蔵と石澤定吉は別の人物事件に関係する人物として、混同されやすいのが酉蔵と石澤定吉である。
酉蔵は堺家の雇人で、ヒグマの襲撃によって重傷を負い、翌19日に死亡したことが開拓使の記録に残っている。
一方、石澤定吉はリツを背負って救出した人物である。
北海道立文書館の公文書には、石澤がリツの危難を認め、背負って安全な場所へ避難させたことが記録されている。
この2人は役割が異なり、酉蔵を救援者の石澤と取り違えないことが重要だ。
【被害人数の真相】死者3名・重傷者2名と4名死亡説の違い
札幌丘珠事件の被害人数には、歴史資料の集計方法によって違いがある。
札幌市の『新札幌市史』第2巻は、明治11年1月の熊害について、円山村と丘珠村で3人が死亡し、2人が重傷を負ったと記録している。
北海道大学CoSTEPの2021年の解説も、死者3名・重傷者2名という数字を採用している。
ところが、2022年以降の史料研究では、北海道立文書館の公文書を読み直した結果、死者の内訳について再検討が進んだ。
公文書から見えてきた被害人数の違い特に重要なのは、明治11年1月19日付の警察関係記録と、同年2月22日付の開拓使関係記録である。
後者には、堺倉吉と長男留吉が即死し、妻リツと雇人酉蔵が重傷を負ったこと、さらに酉蔵が翌19日に死亡したことが記されている。
これらの記録を、1月11日に死亡した蛯子勝太郎の事例と合わせると、次のような内訳になる。
| 人物 | 被害・役割 | 記録上の結果 |
|---|---|---|
| 蛯子勝太郎 | 円山付近でヒグマに襲われた猟師 | 死亡 |
| 堺倉吉 | 堺家の主人 | 死亡 |
| 堺留吉 | 倉吉とリツの長男 | 死亡 |
| 雇人・酉蔵 | 堺家の雇人 | 重傷後、1月19日に死亡 |
| 堺リツ | 倉吉の妻 | 重傷を負い生存 |
| 石澤定吉 | リツを救出した雇人 | 救援者として公文書に記録 |
大きな理由は、初期の記録と後年の研究で、死亡した人物の扱いが異なることにある。
従来の集計では、死亡した人物として蛯子勝太郎を含める説と、雇人酉蔵を含める説が存在していた。
しかし、開拓使の2月22日付文書には、酉蔵が重傷を負った後、翌19日に死亡したことが明記されている。
そのため、蛯子勝太郎、堺倉吉、堺留吉、酉蔵の4人を一連のヒグマ襲撃による死亡者として数える研究が登場した。
この数え方では、リツが重傷を負いながら生存した人物となる。
したがって、従来の「死者3名・重傷者2名」という数字は、札幌市史や北海道大学の解説に基づく歴史的な集計として重要である一方、後年の史料研究では「死者4名・負傷者1名」という再構成も示されている。
数字だけを一つに固定すると、酉蔵の死亡経緯や蛯子勝太郎の存在を正しく理解できなくなる。
日本史上4番目の大規模熊害とされる理由札幌丘珠事件は、日本の熊害史を扱う資料で、記録された大規模事件の一つとして紹介されている。
特に、従来の死者3名・重傷者2名という集計に基づき、日本史上4番目の大規模熊害と位置づけられることがある。
代表的な熊害事件には、次のようなものがある。
- 札幌丘珠事件(1878年)
- 苫前三毛別事件(1915年)
- 石狩沼田幌新事件(1923年)
- 日高福岡大学ワンダーフォーゲル部事件(1970年)
ただし、事件ごとの死傷者数や集計対象には違いがある。特に札幌丘珠事件は、被害者の死亡時期を含めた再検討が必要な事例である。
【開拓期の札幌と丘珠村】なぜヒグマ被害が起きたのか?
事件を理解するには、1878年当時の丘珠村がどのような場所だったのかを知る必要がある。
現在の札幌市東区は、住宅地や農地、商業施設が広がる地域だが、明治初期の丘珠村は原生林が残る開拓地だった。
明治3年に始まった丘珠地区の開拓札幌市東区の公式歴史資料によると、丘珠地区の開拓は1870年(明治3年)、現在の山形県酒田地方から移住した人々によって始まった。
当初は庚午二ノ村と呼ばれ、1871年(明治4年)に丘珠村へ改称された。
当時の住民は、農業や炭焼きなどに従事しながら、森林や湿地を開墾して生活の基盤を築いていた。
周囲にはクマやシカなどの野生動物が生息しており、日常生活でも野生動物への警戒が欠かせなかった。
伏籠川と開拓地の自然環境札幌東部の歴史を語るうえで重要なのが伏籠川である。
伏籠川は、かつて豊平川の本流だった時代を持つ川で、長い年月をかけて周辺の地形や土壌を形成してきた。
札幌市博物館活動センターの解説によれば、伏籠川の自然堤防は道路や農地の形成にも影響し、栄養分を含んだ土壌が後の農業発展を支えた。
一方、明治初期には周辺に原生林が広がっており、人間の生活圏とヒグマの行動範囲が近接していた。
現在のような住宅密集地や道路網が整備されていなかったことも、当時の危険性を考えるうえで重要である。
事件後の丘珠村の発展丘珠地区は、その後も開拓と農業の発展を続けた。
札幌市東区の歴史年表によると、主な出来事は次のとおりである。
- 1870年:酒田地方からの移住者が入植
- 1871年:丘珠村が成立
- 1878年:札幌丘珠事件が発生
- 1879年:周辺の村々をまとめる戸長役場が設置される
- 1892年:丘珠神社が創立され、丘珠獅子舞が初奉納
- 1897年:タマネギ栽培が定着し始める
- 1902年:丘珠村などが札幌村に統合される
- 1955年:札幌村が札幌市と合併
- 1972年:札幌市の政令指定都市移行に伴い東区が誕生
かつて森林と開拓小屋が広がっていた土地は、農業を中心とした地域へ変化し、さらに都市化が進んだ。
現在の丘珠町に残る歴史や地域文化は、こうした開拓の積み重ねの上に成り立っている。
【事件現場の現在】札幌市東区丘珠町に残る歴史と記憶
札幌丘珠事件の現場は、現在の札幌市東区丘珠町にあたる。
ただし、1878年当時の堺家の小屋があった場所を、現在の住所や番地で正確に特定できるわけではない。
後年の歴史研究では、明治4年の『札幌郡丘珠村人別調』や当時の村の略図が取り上げられている。
そこには堺倉吉の名前が記されており、堺家が丘珠村の開拓民として実際に暮らしていたことを裏付ける資料となっている。
古地図の位置関係からは、丘珠街道(石狩街道)沿いで、伏古川が北西方向へ大きく曲がる手前付近が候補として紹介されている。
もっとも、これは古地図をもとにした位置の推定であり、現在の土地に事件現場を示す確定的な標識があるという意味ではない。
北海道大学植物園博物館に残るヒグマの標本事件のもう一つの重要な記憶は、加害したヒグマの標本である。
北海道大学のCoSTEPが2021年に公開した記事では、札幌丘珠事件のヒグマは剥製にされ、胃の内容物とともに北海道大学植物園博物館の収蔵庫に保管されていると紹介されている。
同記事によると、一般展示はされていない。
これは、事件が単なる地域の伝承ではなく、明治期の自然史や北海道の開拓史を研究するための資料としても残されていることを意味する。
現在の植物園博物館には、北海道に生息する哺乳類や鳥類などの標本も収蔵されている。
事件の加害個体そのものを見学できるとは限らないが、北海道の自然史を知る場所として歴史的なつながりがある。
【プロの結論】札幌丘珠事件が現代に伝える教訓
札幌丘珠事件の本質は、ヒグマの凶暴性だけにあるのではない。
注目すべきなのは、開拓期の北海道において、人間の生活圏と野生動物の生息域が密接に重なっていたこと、そして一度発生した野生動物の危険が、地域を越えて連鎖したことである。
最初の猟師への襲撃後、ヒグマは札幌周辺を移動した。追跡する側も厳しい自然条件に直面し、最終的には堺家の小屋で複数の犠牲者が生まれた。
この経緯は、野生動物との遭遇を一つの場所だけの問題として捉えることの難しさを示している。
また、事件に関する死者数の違いは、歴史を調べる際に公文書の記録を確認することの大切さも教えてくれる。
札幌市史の3名死亡・2名重傷という記述と、後年の公文書研究による4名死亡という再構成は、単なる数字の違いではない。被害者一人ひとりの最期や、救援に関わった人物の記録をどう読み取るかという問題につながっている。
2026年現在、丘珠地区は札幌市東区の一部として都市化が進み、農業や地域文化も受け継がれている。しかし、その土地がかつてどのような自然環境にあり、どのような苦難を経験した人々によって開かれたのかを知ることは、地域史を理解するうえで欠かせない。
札幌丘珠事件は、開拓の歴史と北海道の自然環境が交差した出来事として、今後も記録とともに伝えていくべき事件である。
【よくある質問】札幌丘珠事件に関するFAQ
Q1:札幌丘珠事件はいつ起きましたか?
A1:1878年(明治11年)1月11日から18日にかけて発生しました。1月11日に円山付近で猟師がヒグマに襲われ、その後、1月18日午前3時ごろに丘珠村の堺倉吉宅が襲撃されました。
Q2:札幌丘珠事件の死者は何人ですか?
A2:札幌市史や北海道大学の従来の解説では死者3名・重傷者2名とされています。一方、北海道立文書館の公文書を再検討した後年の研究では、雇人酉蔵の翌日死亡も含めて死者4名とする見解があります。
Q3:堺リツは事件後どうなりましたか?
A3:リツはヒグマの襲撃によって重傷を負いましたが、雇人の石澤定吉に救出されて生き延びました。石澤の救援行為は、1878年2月22日付の開拓使公文書にも記録されています。
Q4:堺留吉はどのような被害に遭いましたか?
A4:堺倉吉とリツの長男で、事件当夜に父親とともにヒグマに襲われ、死亡しました。母リツは留吉を抱えて逃げようとしましたが、襲撃の中で救うことができませんでした。
Q5:札幌丘珠事件の現場は現在どこですか?
A5:現在の札幌市東区丘珠町です。古地図や開拓民の人別調から堺家の位置を推定する研究はありますが、現在の住所で正確な地点を断定できるわけではありません。
Q6:事件のヒグマは現在どこに保管されていますか?
A6:北海道大学植物園博物館の収蔵資料として、剥製と胃の内容物が保管されていると2021年の北海道大学CoSTEPの記事で紹介されています。一般展示はされていないと説明されています。
札幌丘珠事件は、1878年1月に現在の札幌市東区丘珠町で発生した、エゾヒグマによる重大な熊害事件である。
冬眠中のヒグマへの銃撃を発端として、蛯子勝太郎の死亡、堺倉吉一家への襲撃、そして雇人たちの被害へと連鎖した。
特に重要なのは、堺リツを救出した石澤定吉の存在と、開拓使公文書に残された酉蔵の死亡記録である。
従来の死者3名・重傷者2名という集計に加え、後年の史料研究による死者4名という見解も理解しておきたい。
現在の丘珠町は、農業や住宅地、地域文化が共存する札幌市東区の一角となっている。その土地に刻まれた開拓民の暮らしと悲劇を知ることは、札幌の歴史だけでなく、北海道の自然と人間の関係を考える手がかりにもなる。
主な歴史資料・調査根拠
- 北海道立文書館「長官届上申書録・明治十一年」:堺倉吉宅への襲撃、酉蔵の死亡、石澤定吉による救援を記録。
- 札幌市中央図書館『新札幌市史』第2巻「蝗害・熊害」:従来の死者3名・重傷者2名という記録。
- 北海道大学CoSTEP「北大にヒグマ出没!」:事件の概要とヒグマ標本の収蔵状況。
- 札幌市東区「東区歴史年表」「丘珠まちづくりセンター」:丘珠地区の開拓と地域の変遷。
- PRESIDENT Online・Newsweek日本版の2025年史料再検討記事:蛯子勝太郎と酉蔵の死亡を合わせた被害人数の再評価。