近衛十四郎(このえ・じゅうしろう)は、戦前から戦後にかけて日本映画界を代表する時代劇俳優として活躍した人物だ。新潟県長岡市に生まれ、大都映画の剣戟スターとして頭角を現し、戦後は新東宝、松竹、東映へと活動の場を広げた。代表作『柳生武芸帳』シリーズでは柳生十兵衛を演じ、速く、豪快で、圧倒的な迫力を持つ殺陣によって独自の存在感を確立した。
長男は俳優の松方弘樹、妻は女優の水川八重子。映画会社の統合による仕事の喪失、実演興行での地方巡業、映画界への復帰、テレビ時代劇での人気、そして妻との別れと晩年の釣り生活。近衛十四郎の人生には、昭和の映画産業の変化と、一人の俳優が自分の技術を武器に生き抜いた歴史が重なっている。1977年5月24日に脳出血で亡くなってから49年となる2026年、改めてその俳優人生を振り返る。
【近衛十四郎とはどんな俳優だった?本名・生年月日・出身地と人物像】

近衛十四郎は、剣戟映画からテレビ時代劇まで幅広く活躍した日本の俳優である。特に評価されたのは、刀を振るう際のスピード、構えの美しさ、そして相手を圧倒する豪快な立ち回りだった。
単に剣を振るうだけではない。画面に登場した瞬間の存在感や、相手役と対峙したときの緊張感、最後の一太刀に至るまでの迫力が、近衛の殺陣を特別なものにしていた。
本名は目黒寅彦、出生名は目黒寅一近衛十四郎の本名は目黒寅彦(めぐろ・とらひこ)。出生名は目黒寅一で、後に寅彦へ改名したとされる。映画俳優として活動する際には近衛十四郎という芸名を使用した。
生年月日については、資料によって記載の違いがある。ラピュタ阿佐ヶ谷の回顧上映資料や近衛の詳細年表では1914年4月10日とされている。一方、日外アソシエーツの『新撰 芸能人物事典 明治~平成』および『20世紀日本人名事典』では1916年4月1日と記載されている。
そのため、一般に紹介される1914年生まれというプロフィールと、1916年生まれとする人物事典の記載には約2年の開きがある。没年はどちらの資料でも1977年であり、生年の違いによって没年齢も63歳と61歳に分かれる。
新潟県長岡市で生まれ、少年時代に父を亡くす近衛は新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカのもとに生まれた。姉と妹に挟まれた家庭の長男として育ったが、実際には先に生まれた長男が早世しており、戸籍上・出生順の説明には注意が必要とされる。
少年時代に父を亡くし、その後は母親のもとで育った。13歳で父を失った経験は、後年の自立した生き方を考えるうえでも印象的な背景である。
工業学校を卒業した後、鉄道建設事務所に勤めたという経歴も伝えられている。しかし、映画俳優への憧れを捨てられず、家族や親戚の反対を押し切って俳優の道を目指した。
奈良県の市川右太衛門プロダクションに研究生として入り、当初は長岡秀樹という芸名を使用。その後、日活京都でも活動した。映画界で最初から主役を約束された人物ではなく、下積みを経て自分の居場所を築いた俳優だった。
【大都映画から新東宝・松竹・東映へ!波乱の移籍経緯と経歴】
近衛十四郎の俳優人生を理解するには、個人の出演作品だけでなく、昭和の映画会社の再編と興行構造の変化を知る必要がある。
彼は1934年、亜細亜映画の『叫ぶ荒神山』で主演デビューを果たした。映画監督の白井戦太郎に才能を認められ、近衛十四郎という芸名で活動を始めたことが、剣戟スターとしての出発点となる。
大都映画で剣戟スターとして成長1935年には白井監督とともに大都映画へ移籍。『銀平崩れ格子』『真田十勇士』『忍術千一夜』などに出演し、時代劇を中心に看板スターとしての地位を築いた。
当時の大都映画は、大手映画会社とは異なる独自の娯楽路線を展開していた。近衛はその作品群の中で主演を重ね、剣を扱う俳優として経験を積んでいった。
1942年の映画会社統合で映画界を離れ、実演興行へ大きな転機は1942年に訪れる。戦時下の映画会社統合によって、大都映画は日活、新興キネマとともに統合され、大日本映画製作株式会社、いわゆる大映となった。
大映には阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門といった剣戟映画の大スターが集まっていた。製作本数の削減も重なり、近衛のような若手スターが従来どおりの出演機会を確保するのは難しくなった。
そこで近衛は、妻の水川八重子とともに大都映画の退職金を投じ、一座を結成。各地を巡る実演興行へと活動の中心を移した。
映画館のスクリーンから舞台へ。これは単なる活動場所の変更ではない。映画会社の統合によって仕事を失った俳優が、自分たちの力で観客の前に立ち続けるための選択だった。
戦後もすぐに映画界へ戻れたわけではなく、舞台での活動を続けながら復帰の機会をうかがった。
近衛十四郎の主要経歴・年代別転換点| 年代・時期 | 所属・出来事 | 主な実績・意味 |
|---|---|---|
| 1914年 | 新潟県長岡市に誕生 | 本名は目黒寅彦、出生名は目黒寅一とされる |
| 1934年 | 亜細亜映画 | 『叫ぶ荒神山』で主演デビュー |
| 1935年 | 大都映画 | 看板スターとして剣戟映画に出演 |
| 1941年 | 結婚 | 女優・水川八重子と結婚 |
| 1942年 | 実演興行 | 大都映画の統合後、妻と一座を結成して地方巡業 |
| 1952~1953年 | 映画界復帰・新東宝 | 端役に近い立場から再出発 |
| 1953~1954年 | 松竹 | 高田浩吉を支える時代劇の立役・敵役として活躍 |
| 1959年 | 松竹の時代劇撤退 | 再び活動の転換期を迎える |
| 1960年 | 東映・第二東映 | 新たな看板スターとして主演作を重ねる |
| 1961~1964年 | 東映映画 | 『柳生武芸帳』シリーズで柳生十兵衛を演じる |
| 1965~1970年 | テレビ時代劇 | 『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』で人気を獲得 |
| 1976年 | 芸能活動から引退 | 健康状態の悪化と妻との死別 |
| 1977年5月24日 | 死去 | 脳出血により京都府内の病院で死去 |
戦後の近衛は、1952年ごろから映画への復帰を進め、1953年には新東宝系の仕事や綜芸プロを通じて活動を再開した。当初は端役に近い扱いからの出直しだったが、剣技と存在感は次第に評価されていく。
その後、松竹に活動の場を移した。松竹では、阪東妻三郎が亡くなった後の時代劇を支える俳優が必要とされていた。時代劇のチーフ監督・大曾根辰夫が近衛に注目し、起用を進めたことが転機になった。
高田浩吉の敵役や、主役と対等に渡り合う立役として活躍し、『お役者変化』『八州遊侠伝 白鷺三味線』『江戸群盗伝』などに出演。1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』などを経て、主演スターとしての存在感も強めていった。
ところが、1959年に松竹が時代劇映画の制作撤退を発表する。近衛が主演スターとして本格的に売り出されようとしていた時期だけに、再び映画会社の方針転換に進路を左右されることになった。
第二東映からニュー東映へ1960年、近衛は東映に移籍した。同時期に移った品川隆二や黒川弥太郎らとともに、第二東映の看板スターとして期待された。
第二東映は、東映が製作・配給の拡大を目指して設けた別系統の映画会社だった。しかし、本家東映の看板スターである片岡千恵蔵や市川右太衛門らが出演しないというスター配置上の制約もあり、興行面では本家との差が生まれた。
1961年にはニュー東映へ名称が変更され、現代劇中心の路線も試みられた。しかし、経営上の状況は改善せず、同年中に製作・配給体制は解消。所属俳優は東映本社へ移ることになった。
日本映像学会の石塚洋史による論文「東映集団時代劇と近衛十四郎」は、この時期の近衛を、東映のスターシステムの中で必ずしも最上位に位置していなかった俳優として分析している。つまり、映画史に残る殺陣の名手でありながら、会社内のスター序列では必ずしも恵まれていなかったのである。
このねじれこそ、近衛十四郎のキャリアを考えるうえで見逃せないポイントだ。映画会社の看板やスターの序列だけでは測れない実力を、作品の中で示し続けた俳優だった。
【柳生武芸帳の柳生十兵衛役が代表作!殺陣の評判と阪東妻三郎との比較】
近衛十四郎の名前を聞いて、多くの時代劇ファンが思い浮かべる役柄が柳生十兵衛である。
五味康祐の小説を原作とする『柳生武芸帳』シリーズは、東映時代の近衛を代表する作品群となった。映画シリーズは1961年から1964年にかけて展開され、近衛は隻眼の剣豪・柳生十兵衛を演じた。
柳生十兵衛役で見せた独特の存在感柳生十兵衛は、徳川将軍家に仕える剣豪として知られる人物だ。時代劇では数多くの俳優が演じてきたが、近衛の十兵衛には、華麗な剣豪というだけでは説明できない迫力があった。
近衛の演技は、端正で優雅な剣士というよりも、実戦をくぐり抜けてきた人物のような荒々しさを感じさせる。刀を構えたときの安定感、相手を見据える鋭い視線、そして一気に間合いを詰める立ち回りが特徴だった。
映画シリーズの最終作にあたる『十兵衛暗殺剣』(1964年)では、大友柳太朗演じる幕屋大休との対決が描かれる。国立映画アーカイブも、近衛と大友による琵琶湖上の一騎打ちを、時代劇映画史に残る迫力ある場面として紹介している。
この作品では、単純に善と悪を分けるだけではない剣豪同士の対立が描かれ、近衛の十兵衛像にも緊張感が加わっている。
なぜ近衛十四郎の殺陣は高く評価されたのか近衛の殺陣が評価された理由は、動きの速さだけではない。
- 刀さばきの速さ:長い刀を扱いながら、素早く連続した動きを見せる。
- 構えの安定感:刀を構えた際の姿勢が画面に映え、剣豪としての説得力がある。
- 豪快な動き:刀を大きく振るう動作に迫力があり、立ち回りの見せ場を作れる。
- 相手役との呼吸:斬る側だけでなく、斬られる側との間合いやタイミングを含めて見せ場を成立させる。
特に特徴的なのが、通常より刀身の長い刀を好んで使ったことだ。近衛は手首の強さを生かし、長い刀を自在に扱うことで、画面に映る剣さばきの迫力を高めたとされる。
文化放送の番組で紹介された時代劇のエピソードでも、近衛の刀は一般的なものより長く、太いにもかかわらず動きが速かったと伝えられている。斬られ役の俳優が、近衛の剣の速さに合わせるのに苦労したという話も残る。
殺陣の評論や関係者の評価では、近衛を昭和の時代劇スターの中でも特に優れた剣戟俳優として位置づける声がある。「日本映画史上最高の殺陣」「古今東西ナンバーワン」といった最大級の賛辞もファンの間で語られてきた。ただし、こうした順位は客観的な公式ランキングではなく、技術や好みによる評価である。
阪東妻三郎との共通点と違い近衛十四郎を語る際、比較対象として名前が挙がるのが阪東妻三郎、通称・阪妻である。
阪東妻三郎は、戦前から戦後にかけて日本映画界を代表した剣戟スターだった。近衛も同じ剣戟映画の系譜に属し、豪快な立ち回りや強い存在感という点で共通する部分がある。
しかし、両者を単純な同一タイプの俳優として扱うのは適切ではない。
阪妻は映画史に名を残す大スターとして、主役を中心に物語を牽引する存在だった。一方、近衛は松竹時代に高田浩吉の敵役を務めるなど、主役と対峙する立場でも強い印象を残した。その後の東映作品では、ニヒルな浪人や孤独な剣豪など、従来の明朗なヒーロー像とは異なる役柄にも持ち味を発揮した。
日本映像学会の研究では、近衛が出演した『忍者狩り』(1964年)や『十兵衛暗殺剣』などについて、従来の明るい東映時代劇とは異なる、泥や血にまみれた戦いの描写が重要視されている。
阪妻の豪快さを連想させる部分を持ちながら、近衛には近衛独自の荒々しさと剣の迫力があった。単なる後継者ではなく、時代劇の表現が変わっていく時期に、自分の身体能力を武器に存在感を示した俳優だったのである。
【近衛十四郎の妻・水川八重子と長男・松方弘樹との関係】
近衛十四郎の家族を語るうえで欠かせないのが、妻の水川八重子と長男の松方弘樹である。
近衛は家庭を持つ一方で、妻とともに舞台興行を続け、戦後の映画復帰後も俳優として活動した。家族の存在は、仕事の転換期や晩年の生活にも深く関係している。
妻・水川八重子は大都映画の女優水川八重子は、近衛と同じ大都映画で活動していた女優である。本名は角西ヤエ子とされ、資料によっては角西やゑなどの表記も見られる。
水川は1935年に大都映画へ入り、時代劇の相手役などで活躍した。近衛との共演を重ねた後、1941年4月15日に結婚している。
1942年に大都映画が統合された後は、近衛とともに一座を組み、地方巡業に参加した。映画会社の事情によって活動の場を失った夫を支えるだけでなく、自身も舞台に立つ女優として興行を続けた。
近衛が映画界へ復帰した後、水川は芸能活動の第一線から退いた。夫婦として長い時間をともに過ごし、近衛の仕事と生活を支えた人物だった。
長男・松方弘樹は父と同じ俳優の道へ近衛十四郎と水川八重子の長男として、1942年7月23日に目黒浩樹が誕生した。後に芸名を松方弘樹とし、日本映画やテレビドラマを代表する俳優の一人となる。
日本コロムビアの公式プロフィールでも、松方弘樹の父が時代劇俳優の近衛十四郎、母が女優の水川八重子であることが紹介されている。
松方は1960年、父が所属していた東映に入社し、『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』で映画デビューした。父と同じ映画会社で俳優としての道を歩み始めたのである。
1961年の『赤穂浪士』では親子共演が実現。その後も時代劇で共演し、1962年の『柳生武芸帳 独眼一刀流』では本格的な親子共演が見どころとなった。
近衛が剣戟スターとして築いた存在感は、松方の俳優人生を考えるうえでも大きな背景となっている。松方自身も時代劇や任侠映画で活躍し、後年にはテレビ番組『松方弘樹世界を釣る』などで釣り好きの一面も見せた。
次男は俳優の目黒祐樹近衛夫妻には、1947年生まれの次男・目黒祐樹もいる。兄の松方弘樹と同じく俳優の道へ進み、芸能一家として知られるようになった。
近衛十四郎は、松方弘樹と目黒祐樹という二人の俳優を育てた父親でもある。映画スターとしての近衛だけでなく、次世代に俳優という仕事をつないだ人物としても、その存在は記憶されている。
【晩年は釣り三昧の生活!1977年5月24日の死去と死因】
近衛十四郎の晩年は、スクリーンで見せた豪快な姿とは少し違う、釣りを中心とした静かな生活へと移っていった。
テレビ時代劇で人気を得た一方、健康状態は次第に悪化していた。糖尿病などの持病を抱え、体力面でも以前のように立ち回ることが難しくなっていった。
釣りを愛し、京都府亀岡市に釣り堀「天国」を開設近衛は若いころから釣りを好み、映画のロケにも釣り竿を持参するほどの愛好家だった。仕事の合間に各地で釣りを楽しみ、俳優業と並行して趣味を大切にしていた。
晩年には長男の松方弘樹と共同出資し、京都府亀岡市にヘラブナ釣りを楽しめる釣り堀「天国」を開設した。伝えられるところでは、約5,000平方メートルの山林を利用し、二人で総額2,000万円を投じた事業だった。
近衛にとって釣り堀は単なる投資先ではなかった。仕事の機会が減り、体力的にも遠方への釣行が難しくなっていた時期に、好きな釣りを日常的に楽しめる場所だった。
松方との共同出資には、父親に釣りを楽しんでもらいたいという家族としての思いもあったと、当時の雑誌記事を通じて伝えられている。
妻・水川八重子との死別が大きな転機に近衛の生活を大きく変えた出来事が、1976年7月25日の妻・水川八重子の死去だった。水川は胃がんを患い、58歳で亡くなった。
長年にわたって仕事と生活をともにしてきた妻を失ったことは、近衛にとって大きな打撃だったとされる。
近衛自身も糖尿病や肝硬変、高血圧などの健康問題を抱えており、以前から医師の指導を受けていた。体調面の問題に加えて、妻の死が精神的な支えを失う出来事となり、芸能活動から事実上引退する方向へ進んだ。
1976年には最後のテレビ出演を終え、同年7月の妻の死去後、芸能界から身を引いた。かつて映画やテレビの第一線で活躍した剣戟スターは、釣りを楽しむ生活を中心に過ごすようになった。
1977年5月20日、釣りの最中に倒れる1977年5月20日、近衛は京都府亀岡市の釣り堀「天国」で、長男の松方弘樹とヘラブナ釣りを楽しんでいた。
その最中に体調を崩し、脳出血で倒れた。近くの南丹病院に搬送され、一時は意識を取り戻したものの、左半身に麻痺が生じるなど病状は深刻だった。
当時の記録では、収縮期血圧が260を示すほどの状態だったとされる。その後も病状は悪化し、5月22日夜には昏睡状態に陥った。
そして、1977年5月24日午前1時55分、近衛十四郎は脳出血により亡くなった。
映画の中では何度も強敵と向き合い、豪快な剣さばきで観客を魅了した近衛だったが、最期の場所は愛する釣り堀だった。映画スターとしての華やかなキャリアとは対照的な、釣りを愛した一人の人間としての晩年でもあった。
【プロの結論】近衛十四郎の本当の評価は殺陣だけではない
近衛十四郎を評価するとき、最も分かりやすい入口は『柳生武芸帳』の柳生十兵衛である。長い刀を自在に操る姿、迫力ある立ち回り、敵を圧倒する存在感は、現在の時代劇ファンにも伝わる魅力を持っている。
しかし、近衛の俳優人生を殺陣の技術だけで説明してしまうと、本質を見落とす。
彼は大都映画の看板スターとして出発した後、戦時統合によって映画の仕事を失い、妻とともに一座を組んで地方を巡業した。戦後には端役に近い立場から再出発し、松竹、東映と所属を変えながら、自分の技術を武器に役柄を獲得していった。
しかも、東映では会社内のスター序列で必ずしも最上位ではなかった。日本映像学会の研究が指摘するように、近衛は集団時代劇の中で、単なる正統派ヒーローではない人物を演じることによって独特の役割を果たした。
この点から考えると、近衛十四郎の最大の功績は、決められたスターの枠に収まらず、役柄と作品の変化に合わせて自分の強みを発揮したことにある。
2026年に近衛十四郎の作品を見るなら、この順番がおすすめ- 柳生十兵衛の魅力を知りたい人:『柳生武芸帳』シリーズ。近衛の剣豪像と長い刀を使った殺陣を理解する入口になる。
- 本格的な剣戟を見たい人:『十兵衛暗殺剣』(1964年)。近衛と大友柳太朗の対決に注目したい。
- 集団時代劇の中での存在感を知りたい人:『忍者狩り』(1964年)。従来の明朗な時代劇とは違う緊張感が見どころだ。
- テレビ時代劇での人気を知りたい人:『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』。豪快な殺陣と軽妙な演技の両方を楽しめる。
- 松方弘樹との親子関係に関心がある人:『柳生武芸帳 独眼一刀流』(1962年)。親子共演という観点からも興味深い作品だ。
なお、近衛十四郎を阪東妻三郎や片岡千恵蔵といった大スターと比較する場合は、単純に誰が上手かったかという順位だけで判断するのではなく、所属会社での立場、作品の予算、役柄、時代ごとの殺陣の表現を分けて見ると、より正確に評価できる。
近衛は、スターシステムの中で必ずしも恵まれた立場にいたわけではない。それでも、剣の技術と画面上の迫力で観客の記憶に残る存在になった。その歩みこそ、昭和の時代劇映画を理解するうえで重要な意味を持っている。
近衛十四郎に関するよくある質問(FAQ)
Q1:近衛十四郎の本名と生年月日は? A1:本名は目黒寅彦、出生名は目黒寅一です。生年月日は一般的なプロフィールや映画特集資料では1914年4月10日、新潟県長岡市生まれとされています。ただし、日外アソシエーツの人物事典には1916年4月1日という異なる記載があります。
Q2:近衛十四郎の代表作や柳生十兵衛役は? A2:代表作は東映の『柳生武芸帳』シリーズです。1961年から1964年にかけて映画シリーズで柳生十兵衛を演じました。そのほか、『十兵衛暗殺剣』『忍者狩り』『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』なども代表的な出演作です。
Q3:近衛十四郎の妻と子供は? A3:妻は女優の水川八重子で、1941年に結婚しました。長男は俳優の松方弘樹、次男は俳優の目黒祐樹です。松方とは映画での親子共演も実現しています。
Q4:近衛十四郎の死因と亡くなった日は? A4:1977年5月24日、脳出血により亡くなりました。亡くなる4日前の5月20日、長男の松方弘樹と京都府亀岡市の釣り堀でヘラブナ釣りをしていた際に倒れ、病院に搬送されていました。
近衛十四郎は、新潟県長岡市に生まれ、大都映画の剣戟スターとして出発した後、戦時統合、実演興行、映画界への復帰、松竹・東映への移籍という波乱の道を歩んだ俳優である。
『柳生武芸帳』の柳生十兵衛役では、長い刀を使った豪快な殺陣で独自の存在感を確立。『素浪人 月影兵庫』や『素浪人 花山大吉』では、剣の迫力に加えて親しみやすい演技も披露した。
妻の水川八重子とともに歩んだ実演興行の時代、長男・松方弘樹との親子共演、そして晩年の釣り生活。近衛の人生は、昭和の映画産業の変化と家族の歴史が交差するものでもあった。
1977年5月24日に亡くなった近衛十四郎は、2026年で没後49年を迎える。しかし、その殺陣の迫力と独特の剣豪像は、今も時代劇映画を語るうえで欠かせない。単なる懐かしのスターではなく、映画会社の枠を超えて自分の技術を貫いた俳優として、その作品を見直す価値は大きい。