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大化の改新は何年?645年の乙巳の変から701年の大宝律令まで徹底解説

小野 隼人 小野 隼人 • 更新: • 公開: • 読了約 22 分
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大化の改新は、645年(皇極天皇4年)に始まった一連の政治改革です。きっかけとなったのは、同年6月12日に飛鳥板蓋宮で起きた「乙巳の変(いっしのへん)」でした。中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺し、翌日には父の蘇我蝦夷も自害したことで、蘇我氏本宗家の政治的な支配は終わりを迎えます。

その後、皇極天皇が譲位し、軽皇子が孝徳天皇として即位。日本初の公式な元号とされる「大化」が制定され、646年には「改新の詔」が出されました。ただし、大化の改新は645年に一度で完成した制度改革ではありません。狭義では645~650年の改革を指し、広義では701年の大宝律令制定まで続く国家形成の過程を含みます。事件の経緯から政治改革の内容、歴史的意義まで、年代を整理しながら解説します。

【答えは645年】大化の改新はいつ始まった?乙巳の変との関係

大化の改新何年

大化の改新が始まった年は645年です。日本史の年表では、645年を大化元年とし、乙巳の変を改革の出発点として扱います。

ただし、乙巳の変と大化の改新は、厳密には同じ意味ではありません。乙巳の変は蘇我入鹿の暗殺を中心とする政治的な政変であり、大化の改新は、その政変を契機に進められた一連の政治改革を指します。

645年6月12日の乙巳の変とは

645年6月12日、飛鳥板蓋宮で宮廷の重要な儀式が行われていた際、蘇我入鹿が襲撃されました。この事件が乙巳の変です。

当時の政権では、蘇我蝦夷とその子である入鹿が大きな政治的影響力を持っていました。蘇我氏は大臣として朝廷の運営に深く関わり、天皇の後継者をめぐる問題にも強い発言力を持っていました。

事件の中心人物となったのは、中大兄皇子と中臣鎌足です。蘇我倉山田石川麻呂らも計画に関わり、宮廷内での襲撃によって入鹿を倒しました。翌日には父の蝦夷も自邸で自害し、蘇我氏の本宗家は政治的に大きく後退しました。

この政変によって、それまで有力豪族が大きな権限を持っていた政治の仕組みを見直す動きが本格化します。天皇を中心とする統一的な国家運営を目指す改革が始まったのです。

「6月12日」は現在の暦でも6月12日なのか

ここで注意したいのが日付の表記です。乙巳の変の「6月12日」は、皇極天皇4年の当時の暦による日付です。現在の太陽暦で使う6月12日とそのまま同一視することはできません。

歴史の教科書や日本史の資料で「645年6月12日」と記載されている場合は、当時の暦による年月日を表していると理解するのが適切です。

孝徳天皇の即位と日本初の元号「大化」

乙巳の変の後、皇極天皇は譲位し、その弟にあたる軽皇子が孝徳天皇として即位しました。中大兄皇子は新政権の皇太子となり、政治改革を推進する重要な立場を担います。

加えて、645年には新しい時代の始まりを示す元号として「大化」が定められました。大化は日本で最初の公式な元号とされています。

元号の制定は、単に年の呼び方を変えるだけの出来事ではありません。新たな政治体制の成立を示し、天皇を中心とする統治のあり方を内外に示す意味を持っていました。

【暗殺の理由を検証】蘇我入鹿はなぜ中大兄皇子らに倒されたのか

大化の改新を理解するには、蘇我入鹿が暗殺された理由を知る必要があります。一般的には、蘇我氏の権力集中と中大兄皇子らによる政治改革の対立が背景にあったと説明されます。

しかし、事件の背景には単純な豪族同士の権力争いだけでなく、皇位継承をめぐる複雑な政治的対立も存在していました。

蘇我氏の権力集中と山背大兄王の事件

蘇我氏は、蘇我馬子の時代から朝廷に強い影響力を持っていました。その後、蝦夷と入鹿の父子が政治の中心に立ち、皇族やほかの豪族に対しても大きな影響を及ぼすようになります。

特に重要なのが、643年に起きた山背大兄王とその一族の滅亡です。

山背大兄王は聖徳太子の子で、皇位継承の有力候補の一人でした。蘇我入鹿による襲撃を受け、一族は滅亡します。この事件は皇位継承をめぐる緊張を高め、蘇我氏本宗家と対立する勢力が結束する背景になったと考えられています。

中公新書の遠山美都男氏へのインタビューでも、山背大兄王一族の滅亡が乙巳の変につながる重要な政治的契機として取り上げられています。遠山氏は、事件の背景を蘇我氏と皇族の単純な対立ではなく、王位継承をめぐる政治的な抗争として捉えています。

中大兄皇子と中臣鎌足が協力した理由

中大兄皇子は、後の天智天皇です。皇族として王権のあり方に深く関わる立場にあり、蘇我氏本宗家の強い政治的影響力と対立する勢力の中心人物となりました。

一方、中臣鎌足は、後に藤原鎌足として知られる人物です。朝廷内で政治的な基盤を築きながら、中大兄皇子と協力関係を結びました。

二人が蹴鞠の会で出会い、鎌足が中大兄皇子に近づいたという逸話はよく知られています。また、南淵請安のもとで学んだことも、二人の関係を説明する際によく取り上げられます。

ただし、乙巳の変の首謀者や具体的な計画の全容については、研究者の間で見解が分かれています。『日本書紀』は中大兄皇子と鎌足を中心人物として描きますが、後世に編纂された歴史書であるため、記述をそのまま事件の全体像とみなすことには慎重さが必要です。

蘇我入鹿暗殺の理由は一つではない

蘇我入鹿の暗殺には、少なくとも次のような政治的要因が関係していたと考えられます。

  • 豪族の権力集中:蘇我蝦夷・入鹿父子が朝廷内で強い影響力を持っていたこと。
  • 皇位継承問題:山背大兄王の滅亡などを背景に、次の王位をめぐる対立が激化していたこと。
  • 新しい国家体制への模索:有力豪族に依存する政治から、統一的な王権による国家運営へ移行する必要性が意識されていたこと。
  • 東アジアの国際情勢:隋・唐の中央集権的な国家形成や朝鮮半島の政治的変動が、日本の政治体制を考えるうえで大きな刺激になっていたこと。

また、『日本書紀』は入鹿が王権を奪おうとしたことを事件の理由として描いています。一方、現代の歴史研究では、その説明が後世の政権による歴史観を反映している可能性も指摘されています。

したがって、乙巳の変は「悪政を行った蘇我入鹿を倒した事件」という単純な物語ではなく、王位継承、政治権力、国家形成が交差した大きな政変として理解する必要があります。

【人物と年表】大化の改新に関わった重要人物と出来事を整理

大化の改新では、皇族、豪族、政治改革を支えた人物が複雑に関係しています。事件の経緯と改革の進展を理解するため、主要人物の役割と重要な年代を整理します。

大化の改新の主要人物と関係
人物・出来事 時期・立場 大化の改新との関係
中大兄皇子 645年・皇太子 乙巳の変の中心人物。後の天智天皇で、改革を推進した。
中臣鎌足 645年・中大兄皇子の協力者 乙巳の変で中大兄皇子と協力。後の藤原鎌足。
蘇我入鹿 645年・蘇我氏本宗家の実力者 乙巳の変で暗殺された人物。
蘇我蝦夷 645年・入鹿の父 入鹿の死の翌日に自害し、蘇我氏本宗家の衰退につながった。
皇極天皇 645年・天皇 乙巳の変当時の天皇。事件後に譲位した。
孝徳天皇 645年・新天皇 皇極天皇の譲位後に即位し、大化の改革を進めた。
大海人皇子 7世紀・皇族 中大兄皇子の弟。後の天武天皇で、古代国家形成の過程に関わった。
蘇我倉山田石川麻呂 645年・蘇我氏の一族 中大兄皇子らの計画に協力したとされる人物。
大化の改新の重要年表

643年:山背大兄王一族の滅亡

蘇我入鹿による山背大兄王一族への襲撃が起き、皇位継承をめぐる政治的緊張が高まりました。

645年:乙巳の変と新政権の成立

6月12日に蘇我入鹿が暗殺され、翌日に蘇我蝦夷が自害しました。その後、皇極天皇が譲位し、孝徳天皇が即位。元号「大化」が制定されます。

646年:改新の詔

孝徳天皇が政治改革の基本方針を示す改新の詔を発しました。土地・人民の把握、地方行政、戸籍、税制などの改革が掲げられます。

652年:難波長柄豊碕宮の完成

孝徳天皇の時代に進められた難波への遷都と宮殿建設が進展し、新しい政治体制の拠点が整備されました。

701年:大宝律令の制定

大宝律令が制定され、中央集権的な律令国家の制度的な骨格が整いました。広義の大化の改新を考える際の重要な到達点です。

【政治改革の内容】646年の改新の詔で何が変わったのか

大化の改新の中心となる政策を知るうえで重要なのが、646年(大化2年)正月に出された「改新の詔」です。

『日本書紀』に記録された改新の詔は、政治改革の基本方針を示す四つの柱から構成されています。従来の豪族を中心とする土地・人民支配を改め、朝廷が全国を統一的に把握する仕組みを目指した点に特徴があります。

1. 公地公民を基本とする土地・人民支配

第一の柱は、豪族が私的に支配していた土地や人民を国家の支配下に置くという考え方です。

これを公地公民制と呼びます。

それまでの政治では、有力豪族が田荘や部曲などを通じて土地や人民を支配していました。こうした仕組みでは、朝廷が全国の土地や人口を直接把握し、税を統一的に徴収することが困難でした。

公地公民の理念は、土地と人民を国家が統一的に管理する方向を示したものです。ただし、645年にすべての土地や人民が一斉に国家の直接支配へ移ったわけではありません。豪族の地域的な影響力はその後も残り、改革は段階的に進みました。

2. 中央と地方の行政組織を整備

第二の柱は、全国を統一的に管理する行政制度の整備です。

中央政府と地方の行政区画を整え、国司や地方の役人を通じて朝廷の命令が各地に届く仕組みを目指しました。

この改革は、地方の有力豪族が独自に地域を支配する仕組みから、中央の政治権力が全国を把握する仕組みへの転換につながります。

なお、改新の詔に登場する「郡」という表記には、後世の制度や『日本書紀』編纂時の表現が反映された可能性があります。実際の7世紀の地方行政では「評(こおり)」という呼称が用いられていたことが、木簡などの史料から確認されています。

3. 戸籍・計帳と班田収授の仕組み

第三の柱は、人民と土地を把握するための制度です。

戸籍や計帳を整備し、人口や家族構成、土地の状況を調査することによって、国家が人民を直接把握することを目指しました。

加えて、土地を一定の基準に従って人民に支給する班田収授の仕組みも掲げられています。

土地を配分するためには、誰がどこに住み、どの程度の土地を耕作しているのかを把握しなければなりません。戸籍や計帳の整備は、土地制度だけでなく税制や労役制度を運営するうえでも欠かせないものでした。

4. 税制と労役の仕組みを見直す

第四の柱は、税や労役の制度を整理することです。

従来の豪族ごとに異なる負担の仕組みを見直し、国家が統一的な基準で税や労役を管理する方向が示されました。

後の律令制度では、租・庸・調などの税制が整えられます。こうした制度は、国家財政を支えると同時に、軍事や公共事業を行うための人的・物的資源を確保する役割も担いました。

改新の詔は646年にすべて実現したのか

ここは誤解されやすい部分です。改新の詔に書かれた制度が、646年の時点ですべて全国に導入されたわけではありません。

『日本書紀』は720年に完成した歴史書であり、646年の詔の文章に後世の制度や用語が反映されている可能性が指摘されています。特に「郡」という表記や、後の律令制度に似た条文については、編纂時の整理や加筆が議論されています。

一方、地方行政の再編や人民の把握を進めた政策そのものは、木簡や遺跡などの考古資料からも検討されています。

つまり、改新の詔は政治改革の方向性を知る重要な史料ですが、その文章と実際の制度運用を区別して読むことが、歴史を正しく理解するポイントです。

【狭義と広義の違い】大化の改新は645年から701年まで続いた?

大化の改新について調べると、645年から650年までという説明と、701年までという説明の両方が出てきます。

これは間違いではありません。大化の改新には、狭義と広義の二つの捉え方があるためです。

狭義の大化の改新は645~650年

狭義の大化の改新は、元号「大化」が使われた645年から650年までの政治改革を指します。

乙巳の変によって新政権が成立し、孝徳天皇のもとで改新の詔が出され、土地・人民の把握や行政制度の整備が進められた時期です。

この期間に注目すると、大化の改新は645年の政変を起点とする、孝徳天皇時代の政治改革として理解できます。

広義の大化の改新は701年の大宝律令まで

広義の大化の改新は、645年から701年の大宝律令制定までに行われた一連の国家改革を含みます。

大化の改新によって示された政治理念は、645年から650年の間だけで完成したわけではありません。その後の天智天皇、天武天皇、持統天皇らの時代にも制度整備が進められました。

最終的に701年の大宝律令によって、中央政府の官制や地方行政、人民支配、税制などを含む律令国家の制度的な骨格が整えられます。

大化の改新と大宝律令の違い

両者は関連していますが、同じ出来事ではありません。

  • 大化の改新:645年の乙巳の変をきっかけに進められた一連の政治改革。
  • 改新の詔:646年に示された政治改革の基本方針。
  • 大宝律令:701年に制定された、律令国家の制度を具体的に定める法典。

この違いを理解すると、645年という年号だけを暗記するよりも、古代日本の国家形成がどのように進んだのかを立体的に捉えられます。

国立公文書館の歴史年表でも、大化改新は645年から始まる出来事として、大宝律令の制定は701年の出来事として、それぞれ区別して整理されています。

【歴史的意義と研究の現在地】大化の改新で日本の政治はどう変わった?

大化の改新の歴史的意義は、豪族の個別的な支配に依存していた政治から、天皇を中心とする統一的な国家運営へと向かう転換点になったことです。

ただし、645年に突然、完成した中央集権国家が誕生したわけではありません。改革の理念が制度として定着するまでには、複数の天皇の時代を通じた長い時間が必要でした。

天皇中心の政治体制への転換

大化の改新以前は、蘇我氏のような有力豪族が政治に大きな影響力を持ち、土地や人民を支配する仕組みが存在していました。

これに対し、大化の改新で目指されたのは、天皇を中心に全国を統一的に管理する政治体制です。

土地や人民を国家が把握し、地方行政組織を整え、税を徴収する仕組みを整備することで、中央政府の権限を強化する方向が明確になりました。

こうした仕組みは、後の律令国家を形成する基礎となります。

中国の唐や朝鮮半島の情勢も改革の背景にあった

大化の改新の背景には、国内の権力争いだけでなく、東アジアの国際情勢もありました。

当時、中国では隋に続いて唐が成立し、中央集権的な国家制度を整備していました。朝鮮半島でも高句麗、百済、新羅の間で政治的・軍事的な緊張が続いていました。

こうした国際環境の変化は、日本の政治体制を見直す必要性を高めたと考えられています。

豪族ごとに分かれた政治的な支配構造では、外交や軍事、財政を全国規模で統一的に運営することが難しくなります。中央政府の権限を強める改革には、国内政治の安定だけでなく、国際社会の中で国家としての体制を整える意味もありました。

前期難波宮の発掘と木簡が明らかにする改革の実態

大化の改新の実態を考えるうえで、重要な役割を果たしているのが考古学の成果です。

大阪市の難波宮跡では、孝徳天皇の時代に造営されたと考えられる前期難波宮の遺構が確認されています。内裏前殿や朝堂院など、後の宮殿にもつながる本格的な政治空間が整備されていたことが分かっています。

また、難波宮跡などから出土した木簡は、当時の行政や文書管理、人民支配のあり方を検討するための重要な資料です。

奈良県立万葉文化館の「万葉百科」も、大化の改新について、地方行政制度の整備など実際に進められた改革を紹介する一方、改新の詔の文章には『日本書紀』編纂時の文飾が含まれる可能性を指摘しています。

近年の研究では、改革そのものを全面的な創作とみなすよりも、実際に進んだ政治的変革と、後世の歴史書に整理された改革理念を区別して評価する見方が重要になっています。

「日本」という国号や「天皇」という称号も645年に成立したのか

大化の改新については、「日本」という国号や「天皇」という称号が、この時期に正式なものになったとする説もあります。

ただし、国号や天皇号の成立・定着には複数の歴史的段階があり、645年の乙巳の変を境に一斉に成立したと断定することはできません。

大化の改新が国家形成の大きな転換点だったことと、現在の日本につながる国号や称号の成立時期は、分けて考える必要があります。

【プロの結論】大化の改新を理解するための3つの判断基準

大化の改新を深く理解するには、年号や人物名の暗記だけでなく、歴史上の出来事をどのような視点で捉えるかが重要です。

第一に、645年の政変と、その後の政治改革を区別すること。乙巳の変は政治権力の交代を意味し、大化の改新はその後に進められた国家制度の再編を意味します。

第二に、改革の理念と実際の制度運用を区別すること。改新の詔に書かれた政策が、そのまま646年に全国で実現したわけではありません。木簡や遺跡などの資料を合わせて考える必要があります。

第三に、701年までの長期的な国家形成を見ること。645年の政変から大宝律令の制定までを一つの歴史的な流れとして捉えることで、古代日本がどのように中央集権的な国家へと変化していったのかが理解できます。

大化の改新の本質は、蘇我氏が倒されたことだけではありません。土地、人民、行政、税制を国家が統一的に管理する仕組みを構築しようとした点にあります。

【大化の改新】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:大化の改新は何年に起きましたか?
A1:645年です。皇極天皇4年6月12日の乙巳の変をきっかけに始まりました。ただし、646年の改新の詔や、その後の制度改革も含めた一連の政治改革を大化の改新と呼びます。

Q2:大化の改新と乙巳の変は何が違うのですか?
A2:乙巳の変は645年に起きた蘇我入鹿暗殺を中心とする政変です。大化の改新は、その政変をきっかけに始まった政治改革全体を指します。乙巳の変は大化の改新の始まりに位置づけられます。

Q3:大化の改新は701年に完成したのですか?
A3:広義の大化の改新は、701年の大宝律令制定までの国家改革を含みます。ただし、645年から701年までのすべての改革が一つの事業として連続していたわけではなく、複数の天皇の時代を通じて段階的に制度が整備されました。

Q4:日本で最初の元号は何ですか?
A4:645年に制定された「大化」です。孝徳天皇の時代に定められた、日本最初の公式な元号とされています。

Q5:大化の改新を進めた中心人物は誰ですか?
A5:中大兄皇子と中臣鎌足が代表的な人物です。また、改革を進めた天皇は孝徳天皇であり、皇極天皇の譲位によって新しい政権が成立しました。

大化の改新は645年に始まった政治改革です。6月12日の乙巳の変によって蘇我入鹿が暗殺され、翌日には蘇我蝦夷が自害。皇極天皇から孝徳天皇への譲位と、日本初の公式元号「大化」の制定を経て、新しい政治体制が動き始めました。

646年には改新の詔が発せられ、公地公民を基本とする土地・人民支配、地方行政の整備、戸籍や班田収授、税制の改革などが掲げられました。

狭義では645~650年の改革を指しますが、広義では701年の大宝律令制定までの国家形成を含みます。大化の改新は、豪族中心の政治から天皇を中心とする中央集権的な政治体制へ移行する重要な出発点でした。

歴史を学ぶ際には、645年という開始年だけでなく、乙巳の変、孝徳天皇の即位、646年の改新の詔、701年の大宝律令という四つの節目を押さえることが大切です。この流れを理解すれば、大化の改新が日本の古代国家形成に果たした役割を、より正確に捉えられます。

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小野 隼人

映画・ドラマの公開情報を担当。配給会社のプレスシートと公式サイトの記載を基準に、あらすじと配役をまとめます。

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